2008年11月5日水曜日

二十六

「もう好い加減に芳江を起さないとまた晩に寝ないで困るよ」
 嫂は黙って起《た》った。
「起きたらすぐ湯に入れておやんなさいよ」
「ええ」
 彼女の後姿《うしろすがた》は廊下を曲《まが》って消えた。
「芳江は昼寝《ひるね》ですか、どうれで静《しずか》だと思った」
「先刻《さっき》何だか拗《す》ねて泣いてたら、それっきり寝ちまったんだよ。何ぼなんでも、もう五時だから、好い加減に起してやらなくっちゃ……」
 母は不平らしい顔をしていた。
 自分はその日珍しく宅《うち》の食卓に向って、晩餐《ばんさん》の箸《はし》を取った。築地の料理屋か待合へ呼ばれたという父は、無論帰らなかったけれども、お重は予定通り戻って来た。
「おい早く来て坐らないか。みんな御前の湯から上《あが》るのを待ってたんだ」
 お重は縁側へぺたりと尻《しり》を着けて団扇《うちわ》で浴衣《ゆかた》の胸へ風を入れていた。
「そんなに急《せ》き立てなくったってよかないの。たまに来たお客さまの癖に」
 お重はつんとしてわざと鼻の先の八つ手の方を向いていた。母はまた始まったという笑の裡《うち》に自分を見た。自分はまた調戯《からかい》たくなった。
「御客さまだと思うなら、そんな大きなお尻を向けないで、早くここへ来てお坐りよ」
「蒼蠅《うるさ》いわよ」
「いったいこの暑いのに、一人でどこをほっつき歩いてたんだい」
「どこでも余計な御世話よ。ほっつき歩くだなんて、第一《だいち》言葉使からしてあなたは下品よ。――好いわ、今日坂田さんの所へ行って、兄さんの秘密をすっかり聞いて来たから」
 お重は兄の事を大兄さん、自分の事をただ兄さんと呼んでいた。始めはちい[#「ちい」に傍点]兄さんと云ったのだが、そのちい[#「ちい」に傍点]を聞くたびに妙な不快を感ずるので、自分はとうとうちい[#「ちい」に傍点]だけを取らしてしまった。
「好くってみんなに話しても」
 お重は湯で火照《ほて》った顔をぐるりと自分の方に向けた。自分は瞬《またた》きを二つ続けざまにした。
「だって御前は今兄さんの秘密だと明言したじゃないか」
「ええ秘密よ」
「秘密なら話してよくないにきまってるじゃないか」
「それを話すから面白いのよ」
 自分はお重の無鉄砲が、何を云い出すか分らないと思って腹の中では辟易《へきえき》した。
「お重御前は論理学でいうコントラジクション・イン・タームス、という事を知らないだろう」
「よくってよ。そんな高慢ちきな英語なんか使って、他《ひと》が知らないと思って」
「もう二人とも止《よ》しにおしよ。何だね面白くもない、十五六の子供じゃあるまいし」
 母はとうとう二人を窘《たし》なめた。自分もそれを好い機《しお》にすぐ舌戦を切り上げた。お重も団扇を縁側へ投げ出しておとなしく食卓に着いた。
 局面が一転した後《あと》なので、秘密らしい秘密は、食事中ついにお重の口から洩《も》れる機会がなかった。母も嫂《あによめ》もまるでそれには取り合う気色《けしき》も見せなかった。平吉という男が裏から出て来て、庭に水を打った。「まだそう燥《かわ》いていないんだから、好い加減にしておおき」と母が云っていた。

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