その日自分は下宿へ帰らずに、事務所からすぐ番町へ廻った。昨日《きのう》まで恐れて近寄らなかったのに、兄の出立と聞くや否や、すぐそちらへ足を向けるのだから、自分の行為はあまりに現金過ぎた。けれども自分はそれを隠す気もなかった。隠さなければすまない人は、宅《うち》に一人もいないように思われた。
茶の間には嫂《あによめ》が雑誌の口絵を見ていた。
「今朝ほどは失礼」
「おや吃驚《びっくり》したわ、誰かと思ったら、二郎さん。今京橋から御帰り?」
「ええ、暑くなりましたね」
自分は手帛《ハンケチ》を出して顔を拭《ふ》いた。それから上着を脱《ぬ》いで畳の上へ放《ほう》り出した。嫂は団扇《うちわ》を取ってくれた。
「御父さんは?」
「御父さんは御留守よ。今日は築地《つきじ》で何かあるんですって」
「精養軒?」
「じゃないでしょう。多分ほかの御茶屋だと思うんだけれども」
「お母さんは?」
「お母さんは今御風呂」
「お重は?」
「お重さんも……」
嫂はとうとう笑いかけた。
「風呂ですか」
「いいえ、いないの」
下女が来て氷の中へ莓《いちご》を入れるかレモンを入れるかと尋ねた。
「宅じゃもう氷を取るんですか」
「ええ二三日《にさんち》前から冷蔵庫を使っているのよ」
気のせいか嫂はこの前見た時よりも少し窶《やつ》れていた。頬の肉が心持減ったらしかった。それが夕方の光線の具合で、顔を動かす時に、ちらりちらりと自分の眼を掠《かす》めた。彼女は左の頬を縁側《えんがわ》に向けて坐っていたのである。
「兄さんはそれでもよく思い切って旅に出かけましたね。僕はことによると今度《こんだ》もまた延ばすかも知れないと思ってたんだが」
「延ばしゃなさらないわよ」
嫂《あによめ》はこういう時に下を向いた。そうしていつもよりも一層落ちついた沈んだ低い声を出した。
「そりゃ兄さんは義理堅いから、Hさんと約束した以上、それを実行するつもりだったには違ないけれども……」
「そんな意味じゃないのよ。そんな意味じゃなくって、そうして延ばさないのよ」
自分はぽかんとして彼女の顔を見た。
「じゃどんな意味で延ばさないんです」
「どんな意味って、――解ってるじゃありませんか」
自分には解らなかった。
「僕には解らない」
「兄さんは妾《あたし》に愛想を尽かしているのよ」
「愛想づかしに旅行したというんですか」
「いいえ、愛想を尽かしてしまったから、それで旅行に出かけたというのよ。つまり妾を妻と思っていらっしゃらないのよ」
「だから……」
「だから妾の事なんかどうでも構わないのよ。だから旅に出かけたのよ」
嫂はこれで黙ってしまった。自分も何とも云わなかった。そこへ母が風呂から上《あが》って来た。
「おやいつ来たの」
母は二人坐っているところを見て厭《いや》な顔をした。
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