2008年11月5日水曜日

二十四

 自分はまた三沢を尋ねた。けれども腹をきめてから尋ねた訳でないから、実際上どんな歩調も前に動かす気にはなれなかった。自分の態度はどこまでもぐずぐずであった。そうしてただ漫然とその女の話をした。
「どうするね」
 こう聞かれると、結局要領を得た何の挨拶《あいさつ》もできなかった。
「僕は職業の上ではふわふわして浪人のように暮しているが、家庭の人としてなら、これでも一定の方針に支配されて、着々固まって行きつつあるつもりだ。ところが君はまるで反対だね。一家の主人となるとか、他《ひと》の夫になるとかいう方面には、故意に意志の働きを鈍らせる癖に、職業の問題になると、手っ取早く片づけて、ちゃんと落ちついているんだから」
「あんまり落ちついてもいないさ」
 自分は大阪の岡田から受取った手紙の中に、相応な位地《いち》があちらにあるから来ないかという勧誘があったので、ことによったら今の事務所を飛び出そうかと考えていた。
「ついこの間までは洋行するってしきりに騒いでいたじゃないか」
 三沢は自分の矛盾を追窮した。自分には西洋も大阪も変化としてこの際大した相違もなかった。
「そう万事|的《あて》にならなくっちゃ駄目だ。僕だけ君の結婚問題を真面目《まじめ》に考えるのは馬鹿馬鹿しい訳だ。断っちまおう」
 三沢はだいぶ癪《しゃく》に障《さわ》ったらしく見えた。自分はまた自分が癪に障ってならなかった。
「いったい先方ではどういうんだ。君は僕ばかり責めるがね、僕には向うの意志が少しも解らないじゃないか」
「解るはずがないよ。まだ何にも話してないんだもの」
 三沢は少し激していた。そうして激するのがもっともであった。彼は女の父兄にも女自身にも、自分の事をまだ一口も告げていなかった。どう間違っても彼らの体面に障《さわ》りようのない事情の下《もと》に、女と自分を御互の視線の通う範囲内に置いただけであった。彼の処置には少しも人工的な痕迹《こんせき》を留《とど》めない、ほとんど自然そのままの利用に過ぎないというのが彼の大いなる誇りであった。
「君の考えが纏《まと》まらない以上はどうする事もできないよ」
「じゃもう少し考えて見よう」
 三沢は焦慮《じれっ》たそうであった。自分も自分が不愉快であった。
 Hさんと兄がいっしょの汽車で東京を去ったのは、自分が三沢の所へ出かけてから、一週間と経《た》たないうちであった。自分は彼らの立つ時刻も日限も知らずにいた。三沢からもHさんからも何の通知を受取らなかった自分は、家《うち》からの電話で始めてそれを聞いた。その時電話口へは思いがけなく嫂《あによめ》が出て来た。
「兄さんは今朝お立ちよ。お父さんがあなたへ知らせておけとおっしゃるから、ちょっと御呼び申しました」
 嫂の言葉は少し改まっていた。
「Hさんといっしょなんでしょうね」
「ええ」
「どこへ行ったんですか」
「何でも伊豆《いず》の海岸を廻るとかいう御話しでした」
「じゃ船ですか」
「いいえやっぱり新橋から……」

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