2008年11月5日水曜日

二十三

 Hさんの云うところはもっともであった。自分は下を向いてしばらく黙っていたが、とうとう嘘《うそ》を吐《つ》いた。
「実は父や母が心配して、できるなら旅行中の模様を、経過の一段落ごとに承知したいと云うんですが……」
 自分は困った顔をした。Hさんは笑い出した。
「君そんなに心配する事はありませんよ。大丈夫だよ、僕が受け合うよ」
「しかし年寄ですから……」
「困るね、それじゃ。だから年寄は嫌《きら》いなんだ。宅《うち》へ行ってそう云いたまえな、大丈夫だって」
「何とか好い工夫はないもんでしょうか。あなたの御迷惑にならないで、そうして、父や母を満足させるような」
 Hさんはまたにやにや笑っていた。
「そんな重宝な工夫があるものかね、君。――しかしせっかくの御依頼だからこうしよう。もし旅先で報道するに足るような事が起ったら、君の所へ手紙を上げると。もし手紙が行かなかったら、平生の通りだと思って安心していると。それでよかろう」
 自分はこれより以上Hさんに望む事はできなかった。
「それで結構です。しかし出来事という意味を俗にいう不慮の出来事と取らずに、あなたが御観察になる兄の感情なり思想のうちで、これは尋常でないと御気づきになったものに応用していただけましょうか」
「なかなか面倒だね、事が。しかしまあいいや、そうしてもいい」
「それからことによると、僕の事だの母の事だの、家庭の事などが兄の口に上《のぼ》るかも知れませんが、それを御遠慮なく一々聞かしていただきたいと思いますが」
「うん、そりゃ差支《さしつか》えない限り知らせて上げましょう」
「差支えがあっても構わないから聞かしていただきたい。それでないと宅《うち》のものが困りますから」
 Hさんは黙って煙草《たばこ》を吹かし出した。自分は弱輩《じゃくはい》の癖に多少云い過ぎた事に気がついた。手持無沙汰《てもちぶさた》の感じが強く頭に上った。Hさんは庭の方を見ていた。その隅《すみ》に秋田から家主が持って来て植えたという大きな蕗《ふき》が五六本あった。雨上りの初夏の空がいつまでも明るい光を地の上に投げているので、その太い蕗の茎《くき》がすいすいと薄暗い中に青く描かれていた。
「あすこへ大きな蟇《がま》が出るんですよ」とHさんが云った。
 しばらく世間話をした後で、自分は暗くならないうちに席を立とうとした。
「君の縁談はどうなりました。この間三沢が来て、好いのを見つけてやったって得意になっていましたよ」
「ええ三沢もずいぶん世話好《せわずき》ですから」
「ところが万更《まんざら》世話好ばかりでやってるんでもないようですよ。だから君も好い加減に貰っちまったら好いじゃありませんか。器量は悪かないって話じゃないか。君には気に入らんのかね」
「気に入らんのじゃありません」
 Hさんは「はあやっぱり気に入ったのかい」と云って笑い出した。自分はHさんの門を出て、あの事も早くどうかしなければ、三沢に対して義理が悪いと考えた。しかし兄の問題が一段落でも片づいてくれない以上、とうていそっちへ向ける心の余裕は出なかった。いっそ一思いにあの女の方から惚《ほ》れ込んでくれたならなどと思っても見た。

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