自分は旅行に出る前のHさんに一応会っておく必要を感じた。こっちで頼んだ事を順に運んでくれた好意に対して、礼を云わなければすまない義理も控えていた。
自分は事務所の帰りがけにまた彼の玄関に立って名刺を出した。取次が奥へ這入《はい》ったかと思うと、彼は例のむくむくした丸い体躯《からだ》を、自分の前に運んで来た。
「実は今あしたの講義で苦しんでいるところなんですがね。もし急用でなければ、今日は御免《ごめん》を蒙《こうむ》りたい」
学者の生活に気のつかなかった自分は、Hさんのこの言葉で、急に兄の日常を想《おも》い起した。彼らの書斎に立籠《たてこも》るのは、必ずしも家庭や社会に対する謀反《むほん》とも限らなかった。自分はHさんに都合の好い日を聞いて、また出直す事にした。
「じゃ御気の毒だが、そうして下さい。なるべく早く講義を切り上げて、兄さんといっしょに旅行しようと云う訳なんだからね」
自分はHさんの前に丁寧《ていねい》な頭を下げなければならなかった。
彼の家を再度|訪問《おとず》れたのは、それからまた二三日経った梅雨晴《つゆばれ》の夕方であった。肥《ふと》った彼は暑いと云って浴衣《ゆかた》の胸を胃の上部まで開け放って坐《すわ》っていた。
「さあどこへ行くかね。まだ海とも山ともきめていないんだが」
Hさんだけあって行く先などはとんと苦《く》にしていないらしかった。自分もそれには無頓着《むとんじゃく》であった。けれども……。
「少しそれについて御願があるんですが」
家庭の事情の一般は、この間三沢と来た時、すでにHさんの耳に入れてしまった。しかし兄と自分との間に横たわる一種特別な関係については、まだ一言《ひとこと》も彼に告げていなかった。しかしそれはいつまで経ってもHさんの前で自分から打ち明《あけ》るべき性質のものでないと自分は考えていた。親しい三沢の知識ですら、そこになるとほとんど臆測《おくそく》に過ぎなかった。Hさんは三沢からその臆測の知識を間接に受けているかも知れなかったけれども、こっちから露骨に切り出さない以上、その信偽《しんぎ》も程度も、まるで確める訳に行かなかった。
自分は兄から今どう見られているか、どう思われているか、それが知りたくって仕方がなかった。それを知るために、この際Hさんの助《たすけ》を借りようとすれば、勢い万事を彼の前に投げ出して見せなければならなかった。自分が三沢に何事も云わずに、あたかも彼を出し抜いたような態度で、たった一人こうしてHさんを訪問するのも、実はその用事の真相をなるべく他《ひと》に知らせたくないからであった。しかし三沢に対してさえ、良心に気兼《きがね》をするような用事の真相なら、それをHさんの前で云われるはずがなかった。
自分はやむをえず特殊《スペシャル》な問題を一般的《ジェネラル》に崩《くず》してしまった。
「はなはだ御迷惑かも知れませんが、兄といっしょに旅行される間、兄の挙動なり言語なり、思想なり感情なりについて、あなたの御観察になったところを、できるだけ詳《くわ》しく書いて報知していただく訳には行きますまいか。その辺が明瞭《めいりょう》になると、宅《たく》でも兄の取扱上大変|便宜《べんぎ》を得るだろうと思うんですが」
「そうさね。絶対にできない事もないが、ちっとむずかしそうですね。だいち時間がないじゃないか、君、そんな事をする。よし時間があっても、必要がないだろう。それより僕らが旅行から帰ったらゆっくり聞きに来たら好いじゃありませんか」
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