2008年11月5日水曜日

二十一

  自分は三沢と飽《あ》かず女の話をした。彼の娶《めと》るべき人は宮内省に関係のある役人の娘であった。その伴侶《つれ》は彼女と仲の好い友達であった。三沢は彼女と打ち合せをして、とくに自分のためにその人を誘い出したのであった。自分はその人の家族やら地位やら教育やらについて得らるる限りの知識を彼から供給して貰った。
 自分は本末《ほんまつ》を顛倒《てんどう》した。雅楽所で三沢に会うまでは、Hさんと兄とがこの夏いっしょにするという旅行の件を、その日の問題として暗《あん》に胸の中《うち》に畳み込んでいた。雅楽所を出る時は、それがほんのつけたりになってしまった。自分はいよいよ彼に別れる間際《まぎわ》になって、始めて四《よ》つ角《かど》の隅《すみ》に立った。
「兄の事も今日君に会ったらよく聞こうと思っていたんだが、いよいよHさんの云う通りになったんだね」
「Hさんはわざわざ僕を呼び寄せてそう云ったくらいなんだから間違はないさ。大丈夫だよ」
「どこへ行くんだろう」
「そりゃ知らない。――どこだって好いじゃないか、行きさいすりゃあ」
 遠くから見ている三沢の眼には、兄の運命が最初からそれほどの問題になっていなかった。
「それより片っ方のほうを積極的にどしどし進行させようじゃないか」
 自分は一人下宿へ帰る途々《みちみち》、やはり兄と嫂《あによめ》の事を考えない訳に行かなかった。しかしその日会った女の事もあるいは彼ら以上に考えたかも知れない。自分は彼女と一言《ひとこと》も口を交えなかった。自分はついに彼女の声を聞き得なかった。三沢は自然が二人を視線の通う一室に会合させたという事実以外に、わざとらしい痕迹《こんせき》を見せるのは厭《いや》だと云って、紹介も何もしなかった。彼はそう云って後《あと》から自分に断った。彼の遣口《やりくち》は、彼女に取っても自分に取っても、面倒や迷惑の起り得ないほど単簡《たんかん》で淡泊《たんぱく》なものであった。しかしそれだから物足りなかった。自分はもう少し何とかして貰いたかった。「しかし君の意志が解らなかったから」と三沢は弁解した。そう云われて見ると、そうでもあった。自分はあれ以上、女をめがけて進んで行く考えはなかったのだから。
 それから二三日は女の顔を時々頭の中で見た。しかしそれがために、また会いたいの焦慮《あせ》るのという熱は起らなかった。その当日のぱっとした色彩が剥《は》げて行くに連れて、番町の方が依然として重要な問題になって来た。自分はなまじい遠くから女の匂《にお》いを嗅《か》いだ反動として、かえってじじむさくなった。事務所の往復に、ざらざらした頬を撫《な》でて見て、手もなく電車に乗った貉《むじな》のようなものだと悲観したりした。
 一週間ほど経《た》って母から電話がかかった。彼女は電話口へ出て、昨日《きのう》Hさんが遊びに来た事を告げた。嫂《あによめ》が風邪気《かぜけ》なので、彼女が代理として饗応《もてなし》の席に出たら、Hさんが兄といっしょに旅行する話を始めたと告げた。彼女は喜ばしそうな調子で、自分に礼を述べた。父からも宜《よろ》しくとの事であった。自分は「いい案排《あんばい》でした」と答えた。
 自分はその晩いろいろ考えた。自分は旅行が兄のために有利であると認めたから、Hさんを煩《わずら》わして、これだけの手続を運んだのであるが、真底《しんてい》を自白すると、自分の最も苦《く》に病《や》んでいるのは、兄の自分に対する思わくであった。彼は自分をどう見ているだろうか。どのくらいの程度に自分を憎んでいるだろう、また疑《うたぐ》っているだろう。そこが一番知りたかった。したがって自分の気になるのは未来の兄であると同時に現在の兄であった。久しく彼と会見の路《みち》を絶たれた自分は、その現在の兄に関する直接の知識をほとんどもたなかった。

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