2008年11月5日水曜日

 自分はいつか手を出して火鉢《ひばち》へあたっていた。その火鉢は幾分か背を高くかつ分厚《ぶあつ》に拵《こしら》えたものであったけれども、大きさから云うと、普通《なみ》の箱火鉢と同じ事なので二人向い合せに手を翳《かざ》すと、顔と顔との距離があまり近過ぎるくらいの位地にあった。嫂《あによめ》は席に着いた初から寒いといって、猫背《ねこぜ》の人のように、心持胸から上を前の方に屈《こご》めて坐っていた。彼女のこの姿勢のうちには女らしいという以外に何の非難も加えようがなかった。けれどもその結果として自分は勢い後《うしろ》へ反《そ》り返る気味で座を構えなければならなくなった。それですら自分は彼女の富士額《ふじびたい》をこれほど近くかつ長く見つめた事はなかった。自分は彼女の蒼白《あおじろ》い頬の色を※[#「(諂-言)+炎」、第3水準1-87-64]《ほのお》のごとく眩《まぶ》しく思った。
 自分はこういう比較的窮屈な態度の下《もと》に、彼女から突如として彼女と兄の関係が、自分が宅《うち》を出た後《あと》もただ好くない一方に進んで行くだけであるという厭《いや》な事実を聞かされた。彼女はこれまでこちらから問いかけなければ、けっして兄の事について口を開かない主義を取っていた。たといこちらから問いかけても「相変らずですわ」とか、「何心配するほどの事じゃなくってよ」とか答えてただ微笑するのが常であった。それをまるで逆《さか》さまにして、自分の最も心苦しく思っている問題の真相を、向うから積極的にこちらへ吐きかけたのだから、卑怯《ひきょう》な自分は不意に硫酸を浴《あび》せられたようにひりひりとした。
 しかしいったん緒《いとぐち》を見出した時、自分はできるだけ根掘り葉掘り聞こうとした。けれども言葉の浪費を忌《い》む彼女は、そうこちらの思い通りにはさせなかった。彼女の口にするところは重《おも》に彼ら夫婦間に横たわる気不味《きまず》さの閃電《せんでん》に過ぎなかった。そうして気不味さの近因についてはついに一言《ひとこと》も口にしなかった。それを聞くと、彼女はただ「なぜだか分らないのよ」というだけであった。実際彼女にはそれが分らないのかも知れなかった。また分っている癖にわざと話さないのかも知れなかった。
「どうせ妾《あたし》がこんな馬鹿に生れたんだから仕方がないわ。いくらどうしたってなるようになるよりほかに道はないんだから。そう思って諦《あき》らめていればそれまでよ」
 彼女は初めから運命なら畏《おそ》れないという宗教心を、自分一人で持って生れた女らしかった。その代り他《ひと》の運命も畏れないという性質《たち》にも見えた。
「男は厭《いや》になりさえすれば二郎さん見たいにどこへでも飛んで行けるけれども、女はそうは行きませんから。妾なんかちょうど親の手で植付けられた鉢植《はちうえ》のようなもので一遍植えられたが最後、誰か来て動かしてくれない以上、とても動けやしません。じっとしているだけです。立枯《たちがれ》になるまでじっとしているよりほかに仕方がないんですもの」
 自分は気の毒そうに見えるこの訴えの裏面に、測《はか》るべからざる女性《にょしょう》の強さを電気のように感じた。そうしてこの強さが兄に対してどう働くかに思い及んだ時、思わずひやりとした。
「兄さんはただ機嫌《きげん》が悪いだけなんでしょうね。ほかにどこも変ったところはありませんか」
「そうね。そりゃ何とも云えないわ。人間だからいつどんな病気に罹《かか》らないとも限らないから」
 彼女はやがて帯の間から小さい女持の時計を出してそれを眺《なが》めた。室《へや》が静かなのでその蓋《ふた》を締める音が意外に強く耳に鳴った。あたかも穏かな皮膚の面《おもて》に鋭い針の先が触れたようであった。
「もう帰りましょう。――二郎さん御迷惑でしたろうこんな厭《いや》な話を聞かせて。妾《あたし》今まで誰にもした事はないのよ、こんな事。今日自分の宅《うち》へ行ってさえ黙ってるくらいですもの」
 上《あが》り口に待っていた車夫の提灯《ちょうちん》には彼女の里方《さとかた》の定紋《じょうもん》が付いていた。

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