2008年11月5日水曜日

 その晩は静かな雨が夜通し降った。枕を叩《たた》くような雨滴《あまだれ》の音の中に、自分はいつまでも嫂《あによめ》の幻影《まぼろし》を描いた。濃《こ》い眉《まゆ》とそれから濃い眸子《ひとみ》、それが眼に浮ぶと、蒼白《あおしろ》い額や頬は、磁石《じしゃく》に吸いつけられる鉄片《てっぺん》の速度で、すぐその周囲《まわり》に反映した。彼女の幻影は何遍も打ち崩《くず》された。打ち崩されるたびに復《また》同じ順序がすぐ繰返された。自分はついに彼女の唇《くちびる》の色まで鮮かに見た。その唇の両端《りょうはし》にあたる筋肉が声に出ない言葉の符号《シンボル》のごとく微《かす》かに顫動《せんどう》するのを見た。それから、肉眼の注意を逃れようとする微細の渦《うず》が、靨《えくぼ》に寄ろうか崩れようかと迷う姿で、間断なく波を打つ彼女の頬をありありと見た。
 自分はそれくらい活《い》きた彼女をそれくらい劇《はげ》しく想像した。そうして雨滴《あまだれ》の音のぽたりぽたりと響く中に、取り留めもないいろいろな事を考えて、火照《ほて》った頭を悩まし始めた。
 彼女と兄との関係が悪く変る以上、自分の身体《からだ》がどこにどう飛んで行こうとも、自分の心はけっして安穏《あんのん》であり得なかった。自分はこの点について彼女にもっと具体的な説明を求めたけれども、普通の女のように零砕《れいさい》な事実を訴えの材料にしない彼女は、ほとんど自分の要求を無視したように取り合わなかった。自分は結果からいうと、焦慮《じら》されるために彼女の訪問を受けたと同じ事であった。
 彼女の言葉はすべて影のように暗かった。それでいて、稲妻《いなずま》のように簡潔な閃《ひらめき》を自分の胸に投げ込んだ。自分はこの影と稲妻とを綴《つづ》り合せて、もしや兄がこの間中《あいだじゅう》癇癖《かんぺき》の嵩《こう》じたあげく、嫂に対して今までにない手荒な事でもしたのではなかろうかと考えた。打擲《ちょうちゃく》という字は折檻《せっかん》とか虐待《ぎゃくたい》とかいう字と並べて見ると、忌《いま》わしい残酷な響を持っている。嫂は今の女だから兄の行為を全くこの意味に解しているかも知れない。自分が彼女に兄の健康状態を聞いた時、彼女は人間だからいつどんな病気に罹るかも知れないと冷《ひやや》かに云って退《の》けた。自分が兄の精神作用に掛念《けねん》があってこの問を出したのは彼女にも通じているはずである。したがって平生よりもなお冷淡な彼女の答は、美しい己《おの》れの肉に加えられた鞭《むち》の音を、夫の未来に反響させる復讐《ふくしゅう》の声とも取れた。――自分は怖《こわ》かった。
 自分は明日《あす》にも番町へ行って、母からでもそっと彼ら二人の近況を聞かなければならないと思った。けれども嫂《あによめ》はすでに明言した。彼ら夫婦関係の変化については何人《なんびと》もまだ知らない、また何人《なんびと》にも告げた事がないと明言した。影のような稲妻《いなずま》のような言葉のうちからその消息をぼんやりと焼きつけられたのは、天下に自分の胸がたった一つあるばかりであった。
 なぜあれほど言葉の寡《すく》ない嫂が自分にだけそれを話し出したのだろうか。彼女は平生から落ちついている。今夜も平生の通り落ちついていた。彼女は昂奮《こうふん》の極《きょく》訴える所がないので、わざわざ自分を訪《と》うたものとは思えなかった。だいち訴えという言葉からしてが彼女の態度には不似合であった。結果から云えば、自分は先刻《さっき》云った通りむしろ彼女から焦慮《じら》されたのであるから。
 彼女は火鉢にあたる自分の顔を見て、「なぜそう堅苦《かたくる》しくしていらっしゃるの」と聞いた。自分が「別段堅苦しくはしていません」と答えた時、彼女は「だって反《そ》っ繰《く》り返《かえ》ってるじゃありませんか」と笑った。その時の彼女の態度は、細い人指《ひとさし》ゆびで火鉢の向側から自分の頬《ほっ》ぺたでも突っつきそうに狎《な》れ狎れしかった。彼女はまた自分の名を呼んで、「吃驚《びっくり》したでしょう」と云った。突然雨の降る寒い晩に来て、自分を驚かしてやったのが、さも愉快な悪戯《いたずら》ででもあるかのごとくに云った。……
 自分の想像と記憶は、ぽたりぽたりと垂れる雨滴《あまだれ》の拍子《ひょうし》のうちに、それからそれからととめどもなく深更まで廻転した。

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