自分はその席で父と母から兄に関する近況の一般を聞いた。彼らの挙《あ》げた事実は、お重を通して得た自分の知識に裏書をする以外、別に新しい何物をも付け加えなかったけれども、その様子といい言葉といい、いかにも兄の存在を苦《く》にしているらしく見えて、はなはだ痛々しかった。彼ら(ことに母)は兄一人のために宅中《うちじゅう》の空気が湿《しめ》っぽくなるのを辛《つら》いと云った。尋常の父母以上にわが子を愛して来たという自信が、彼らの不平を一層濃く染めつけた。彼らはわが子からこれほど不愉快にされる因縁《いんねん》がないと暗に主張しているらしく思われた。したがって自分が彼らの前に坐《すわ》っている間、彼らは兄を云々するほか、何人《なんびと》の上にも非難を加えなかった。平生から兄に対する嫂の仕打に飽《あ》き足らない顔を見せていた母でさえ、この時は彼女についてついに一口も訴えがましい言葉を洩《も》らさなかった。
彼らの不平のうちには、同情から出る心配も多量に籠《こも》っていた。彼らは兄の健康について少からぬ掛念《けねん》をもっていた。その健康に多少支配されなければならない彼の精神状態にも冷淡ではあり得なかった。要するに兄の未来は彼らにとって、恐ろしいX《エッキス》であった。
「どうしたものだろう」
これが相談の時必ず繰り返されべき言葉であった。実を云えば、一人一人離れている折ですら、胸の中《うち》でぼんやり繰り返して見るべき二人の言葉であった。
「変人《へんじん》なんだから、今までもよくこんな事があったには有ったんだが、変人だけにすぐ癒《なお》ったもんだがね。不思議だよ今度《こんだ》は」
兄の機嫌買《きげんかい》を子供のうちから知り抜いている彼らにも、近頃の兄は不思議だったのである。陰欝《いんうつ》な彼の調子は、自分が下宿する前後から今日《こんにち》まで少しの晴間なく続いたのである。そうしてそれがだんだん険悪の一方に向って真直《まっすぐ》に進んで行くのである。
「本当に困っちまうよ妾《わたし》だって。腹も立つが気の毒でもあるしね」
母は訴えるように自分を見た。
自分は父や母と相談のあげく、兄に旅行でも勧めて見る事にした。彼らが自分達の手際《てぎわ》ではとても駄目だからというので、自分は兄と一番親密なHさんにそれを頼むが好かろうと発議《ほつぎ》して二人の賛成を得た。しかしその頼み役には是非共自分が立たなければ済まなかった。春休みにはまだ一週間あった。けれども学校の講義はもうそろそろしまいになる日取であった。頼んで見るとすれば、早くしなければ都合が悪かった。
「じゃ二三日《にさんち》うちに三沢の所へ行って三沢からでも話して貰うかまた様子によったら僕がじかに行って話すか、どっちかにしましょう」
Hさんとそれほど懇意でない自分は、どうしても途中に三沢を置く必要があった。三沢は在学中Hさんを保証人にしていた。学校を出てからもほとんど家族の一人のごとく始終《しじゅう》そこへ出入していた。
帰りがけに挨拶《あいさつ》をしようと思って、ちょっと嫂《あによめ》の室《へや》を覗《のぞ》いたら、嫂は芳江を前に置いて裸人形に美しい着物を着せてやっていた。
「芳江大変大きくなったね」
自分は芳江の頭へ立ちながら手をかけた。芳江はしばらく顔を見なかった叔父に突然|綾《あや》されたので、少しはにかんだように唇《くちびる》を曲げて笑っていた。門を出る時はかれこれ五時に近かったが、兄はまだ上野から帰らなかった。父は久しぶりだから飯《めし》でも食って彼に会って行けと云ったが、自分はとうとうそれまで腰を据《す》えていられなかった。
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