2008年11月5日水曜日

十三

 翌日《あくるひ》自分は事務所の帰りがけに三沢を尋ねた。ちょうど髪を刈りに今しがた出かけたところだというので、自分は遠慮なく上り込んで彼を待つ事にした。
「この両三日《りょうさんにち》はめっきりお暖かになりました。もうそろそろ花も咲くでございましょう」
 主人の帰る間座敷へ出た彼の母は、いつもの通り丁寧《ていねい》な言葉で自分に話し掛けた。
 彼の室《へや》は例のごとく絵だのスケッチだので鼻を突きそうであった。中には額縁《がくぶち》も何《な》にもない裸のままを、ピンで壁の上へじかに貼《は》り付けたのもあった。
「何だか存じませんが、好《すき》だものでございますから、むやみと貼散らかしまして」と彼の母は弁解がましく云った。自分は横手の本棚《ほんだな》の上に、丸い壺《つぼ》と並べて置いてあった一枚の油絵に眼を着けた。
 それには女の首が描《か》いてあった。その女は黒い大きな眼をもっていた。そうしてその黒い眼の柔《やわら》かに湿《うるお》ったぼんやりしさ加減が、夢のような匂《におい》を画幅全体に漂わしていた。自分はじっとそれを眺めていた。彼の母は苦笑して自分を顧みた。
「あれもこの間いたずらに描きましたので」
 三沢は画《え》の上手な男であった。職業柄自分も画の具を使う道ぐらいは心得ていたが、芸術的の素質を饒《ゆた》かにもっている点において、自分はとうてい彼の敵ではなかった。自分はこの画を見ると共に可憐なオフィリヤを連想した。
「面白いです」と云った。
「写真を台にして描いたんだから気分がよく出ない、いっそ生きてるうちに描かして貰《もら》えば好かったなんて申しておりました。不幸な方で、二三年前に亡くなりました。せっかく御世話をして上げた御嫁入先も不縁でね、あなた」
 油絵のモデルは三沢のいわゆる出戻《でもど》りの御嬢さんであった。彼の母は自分の聞かない先きに、彼女についていろいろと語った。けれども女と三沢との関係は一言《ひとこと》も口にしなかった。女の精神病に罹《かか》った事にもまるで触れなかった。自分もそれを聞く気は起らなかった。かえって話頭をこっちで切り上げるようにした。
 問題は彼女を離れるとすぐ三沢の結婚談に移って行った。彼の母は嬉《うれ》しそうであった。
「あれもいろいろ御心配をかけましたが、今度ようやくきまりまして……」
 この間三沢から受取った手紙に、少し一身上《いっしんじょう》の事について、君に話があるからそのうち是非行くと書いてあったのが、この話でやっと悟れた。自分は彼の母に対して、ただ人並の祝意を表しておいたが、心のうちではその嫁になる人は、はたしてこの油絵に描いてある女のように、黒い大きな滴《したた》るほどに潤《うるお》った眼をもっているだろうか、それが何より先に確めて見たかった。
 三沢は思ったほど早く帰らなかった。彼の母はおおかた帰りがけに湯にでも行ったのだろうと云って、何なら見せにやろうかと聞いたが、自分はそれを断った。しかし彼女に対する自分の話は、気の毒なほど実《み》が入らなかった。
 三沢にどうだろうと云った自分の妹《いもと》のお重は、まだどこへ行くともきまらずにぐずぐずしている。そういう自分もお重と同じ事である。せっかく身の堅まった兄と嫂《あによめ》は折り合わずにいる。――こんな事を対照して考えると、自分はどうしても快活になれなかった。

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