2008年11月6日木曜日

三十一

 自分は力《つと》めて兄の事を忘れようとした。するとふと大阪の病院で三沢から聞いた精神病の「娘さん」を聯想《れんそう》し始めた。
「あのお嬢さんの法事には間に合ったのかね」と聞いて見た。
「間に合った。間に合ったが、実にあの娘さんの親達は失敬な厭《いや》な奴《やつ》だ」と彼は拳骨《げんこつ》でも振り廻しそうな勢いで云った。自分は驚いてその理由を聞いた。
 彼はその日三沢家を代表して、築地の本願寺の境内《けいだい》とかにある菩提所《ぼだいしょ》に参詣《さんけい》した。薄暗い本堂で長い読経《どきょう》があった後、彼も列席者の一人として、一抹《いちまつ》の香を白い位牌《いはい》の前に焚《た》いた。彼の言葉によると、彼ほどの誠をもって、その若く美しい女の霊前に額《ぬか》ずいたものは、彼以外にほとんどあるまいという話であった。
「あいつらはいくら親だって親類だって、ただ静かなお祭りでもしている気になって、平気でいやがる。本当に涙を落したのは他人のおれだけだ」
 自分は三沢のこういう憤慨を聞いて、少し滑稽《こっけい》を感じたが、表ではただ「なるほど」と肯《うけ》がった。すると三沢は「いやそれだけなら何も怒りゃしない。しかし癪《しゃく》に障《さわ》ったのはその後《あと》だ」
 彼は一般の例に従って、法要の済んだ後《あと》、寺の近くにある或る料理屋へ招待された。その食事中に、彼女の父に当る人や、母に当る女が、彼に対して談《はなし》をするうちに妙に引っ掛って来た。何の悪意もない彼には、最初いっこうその当こすりが通じなかったが、だんだん時間の進むに従って、彼らの本旨《ほんし》がようやく分って来た。
「馬鹿にもほどがあるね。露骨にいえばさ、あの娘さんを不幸にした原因は僕にある。精神病にしたのも僕だ、とこうなるんだね。そうして離別になった先の亭主は、まるで責任のないように思ってるらしいんだから失敬じゃないか」
「どうしてまたそう思うんだろう。そんなはずはないがね。君の誤解じゃないか」と自分が云った。
「誤解?」と彼は大きな声を出した。自分は仕方なしに黙った。彼はしきりにその親達の愚劣な点を述べたててやまなかった。その女の夫となった男の軽薄を罵《のの》しって措《お》かなかった。しまいにこう云った。
「なぜそんなら始めから僕にやろうと云わないんだ。資産や社会的の地位ばかり目当《めあて》にして……」
「いったい君は貰《もら》いたいと申し込んだ事でもあるのか」と自分は途中で遮《さえぎ》った。
「ないさ」と彼は答えた。
「僕がその娘さんに――その娘さんの大きな潤《うるお》った眼が、僕の胸を絶えず往来《ゆきき》するようになったのは、すでに精神病に罹《かか》ってからの事だもの。僕に早く帰って来てくれと頼み始めてからだもの」
 彼はこう云って、依然としてその女の美しい大《おおき》な眸《ひとみ》を眼の前に描くように見えた。もしその女が今でも生きていたならどんな困難を冒《おか》しても、愚劣な親達の手から、もしくは軽薄な夫の手から、永久に彼女を奪い取って、己《おの》れの懐《ふところ》で暖めて見せるという強い決心が、同時に彼の固く結んだ口の辺《あたり》に現れた。
 自分の想像は、この時その美しい眼の女よりも、かえって自分の忘れようとしていた兄の上に逆戻りをした。そうしてその女の精神に祟《たた》った恐ろしい狂いが耳に響けば響くほど、兄の頭が気にかかって来た。兄は和歌山行の汽車の中で、その女はたしかに三沢を思っているに違ないと断言した。精神病で心の憚《はばかり》が解けたからだとその理由までも説明した。兄はことによると、嫂《あによめ》をそういう精神病に罹《かか》らして見たい、本音を吐かせて見たい、と思ってるかも知れない。そう思っている兄の方が、傍《はた》から見ると、もうそろそろ神経衰弱の結果、多少精神に狂いを生じかけて、自分の方から恐ろしい言葉を家中に響かせて狂い廻らないとも限らない。
 自分は三沢の顔などを見ている暇をもたなかった。

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