陰刻《いんこく》な冬が彼岸《ひがん》の風に吹き払われた時自分は寒い窖《あなぐら》から顔を出した人のように明るい世界を眺めた。自分の心のどこかにはこの明るい世界もまた今やり過ごした冬と同様に平凡だという感じがあった。けれども呼息《いき》をするたびに春の匂《におい》が脈《みゃく》の中に流れ込む快よさを忘れるほど自分は老いていなかった。
自分は天気の好い折々|室《へや》の障子《しょうじ》を明け放って往来を眺めた。また廂《ひさし》の先に横《よこた》わる蒼空《あおぞら》を下から透《すか》すように望んだ。そうしてどこか遠くへ行きたいと願った。学校にいた時分ならもう春休みを利用して旅へ出る支度《したく》をするはずなのだけれども、事務所へ通うようになった今の自分には、そんな自由はとても望めなかった。偶《たま》の日曜ですら寝起《ねおき》の悪い顔を一日下宿に持ち扱って、散歩にさえ出ない事があった。
自分は半ば春を迎えながら半ば春を呪《のろ》う気になっていた。下宿へ帰って夕飯《ゆうめし》を済ますと、火鉢《ひばち》の前へ坐《すわ》って煙草《たばこ》を吹かしながら茫然《ぼんやり》自分の未来を想像したりした。その未来を織る糸のうちには、自分に媚《こ》びる花やかな色が、新しく活けた佐倉炭《さくらずみ》の焔《ほのお》と共にちらちらと燃え上るのが常であったけれども、時には一面に変色してどこまで行っても灰のように光沢《つや》を失っていた。自分はこういう想像の夢から突然何かの拍子《ひょうし》で現在の我に立ち返る事があった。そうしてこの現在の自分と未来の自分とを運命がどういう手段で結びつけて行くだろうと考えた。
自分が不意に下宿の下女から驚かされたのは、ちょうどこんな風に現実と空想の間に迷ってじっと火鉢に手を翳《かざ》していた、ある宵《よい》の口《くち》の出来事であった。自分は自分の注意を己《おの》れ一人に集めていたというものか、実際下女の廊下を踏んで来る足音に気がつかなかった。彼女が思いがけなくすうと襖《ふすま》を開けた時自分は始めて偶然のように眼を上げて彼女と顔を見合せた。
「風呂かい」
自分はすぐこう聞いた。これよりほかに下女が今頃自分の室《へや》の襖を開けるはずがないと思ったからである。すると下女は立ちながら「いいえ」と答えたなり黙っていた。自分は下女の眼元に一種の笑いを見た。その笑いの中《うち》には相手を翻弄《ほんろう》し得た瞬間の愉快を女性的《にょしょうてき》に貪《むさぼ》りつつある妙な閃《ひらめき》があった。自分は鋭く下女に向って、「何だい、突立《つった》ったまま」と云った。下女はすぐ敷居際《しきいぎわ》に膝《ひざ》を突いた。そうして「御客様です」とやや真面目《まじめ》に答えた。
「三沢だろう」と自分が云った。自分はある事で三沢の訪問を予期していたのである。
「いいえ女の方です」
「女の人?」
自分は不審の眉《まゆ》を寄せて下女に見せた。下女はかえって澄ましていた。
「こちらへ御通し申しますか」
「何という人だい」
「知りません」
「知りませんって、名前を聞かないでむやみに人の室へ客を案内する奴《やつ》があるかい」
「だって聞いてもおっしゃらないんですもの」
下女はこう云って、また先刻《さっき》のような意地の悪い笑を目元で笑った。自分はいきなり火鉢から手を放して立ち上った。敷居際に膝を突いている下女を追い退《の》けるようにして上《あが》り口《ぐち》まで出た。そうして土間の片隅にコートを着たまま寒そうに立っていた嫂《あによめ》の姿を見出した。
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