その日私はまた兄さんを引張《ひっぱ》り出して今度は山へ行きました。上を見て山に行き、下を向いて湯に入る、それよりほかにする事はまずない所なのですから。
兄さんは痩《や》せた足を鞭《むち》のように使って細い道を達者に歩きます。その代り疲れる事もまた人一倍早いようです。肥った私がのそのそ後《あと》から上《あが》って行くと、木の根に腰をかけて、せえせえ云っています。兄さんのは他《ひと》を待ち合せるのではありません。自分が呼息《いき》を切らしてやむをえずに斃《たお》れるのです。
兄さんは時々立ち留まって茂みの中に咲いている百合《ゆり》を眺めました。一度などは白い花片《はなびら》をとくに指して、「あれは僕の所有だ」と断りました。私にはそれが何の意味だか解りませんでしたが、別に聞き返す気も起らずに、とうとう天辺《てっぺん》まで上《のぼ》りました。二人でそこにある茶屋に休んだ時、兄さんはまた足の下に見える森だの谷だのを指《さ》して、「あれらもことごとく僕の所有だ」と云いました。二度まで繰り返されたこの言葉で、私は始めて不審を起しました。しかしその不審はその場ですぐ晴らす訳に行きませんでした。私の質問に対する兄さんの答は、ただ淋《さび》しい笑に過ぎなかったのです。
我々はその茶店の床几《しょうぎ》の上で、しばらく死んだように寝ていました。その間兄さんは何を考えていたか知りません。私はただ明らかな空を流れる白い雲の様子ばかり見ていました。私の眼はきらきらしました。しだいに帰《かえ》り途《みち》の暑さが想《おも》いやられるようになりました。私は兄さんを促《うなが》してまた山を下りました。その時です。兄さんが突然|後《うしろ》から私の肩をつかんで、「君の心と僕の心とはいったいどこまで通じていて、どこから離れているのだろう」と聞いたのは。私は立ちどまると同時に、左の肩を二三度強く小突き廻されました。私は身体《からだ》に感ずる動揺を、同じように心でも感じました。私は平生から兄さんを思索家と考えていました。いっしょに旅に出てからは、宗教に這入《はい》ろうと思って這入口《はいりくち》が分らないで困っている人のようにも解釈して見ました。私が心に動揺を感じたというのは、はたして兄さんのこの質問が、そういう立場から出たのであろうかと迷ったからです。私はあまり物に頓着《とんじゃく》しない性質《たち》です。またあまり物に驚かない、いたって鈍《どん》な男です。けれども出立|前《ぜん》あなたからいろいろ依頼を受けたため、兄さんに対してだけは、妙に鋭敏になりたがっていました。私は少し平気の道を踏み外《はず》しそうになりました。
「〔Keine Bru:cke fu:hrt von Mensch zu Mensch.〕(人から人へ掛け渡す橋はない)」
私はつい覚えていた独逸《ドイツ》の諺《ことわざ》を返事に使いました。無論半分は問題を面倒にしない故意《こい》の作略《さりゃく》も交《まじ》っていたでしょうが。すると兄さんは、「そうだろう、今の君はそうよりほかに答えられまい」と云うのです。私はすぐ「なぜ」と聞き返しました。
「自分に誠実でないものは、けっして他人に誠実であり得ない」
私は兄さんのこの言葉を、自分のどこへ応用して好いか気がつきませんでした。
「君は僕のお守《もり》になって、わざわざいっしょに旅行しているんじゃないか。僕は君の好意を感謝する。けれどもそういう動機から出る君の言動は、誠《まこと》を装《よそお》う偽《いつわ》りに過ぎないと思う。朋友《ほうゆう》としての僕は君から離れるだけだ」
兄さんはこう断言しました。そうして私をそこへ取残したまま、一人でどんどん山道を馳《か》け下りて行きました。その時私も兄さんの口を迸《ほとば》しる Einsamkeit, du meine Heimat Einsamkeit !(孤独なるものよ、汝はわが住居《すまい》なり)という独逸語を聞きました。
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