それからしばらくの間は、B先生の顔を見ても、三沢の所へ遊びに行っても、兄の話はいっこう話題に上《のぼ》らなかった。自分は少し安心した。そうしてなるべく家《うち》の事を忘れようと試みた。しかし下宿の徒然《とぜん》に打ち勝たれるのが何より苦しいので、よく三沢の時間を潰《つぶ》しにこっちから押し寄せたり、また引っ張り出したりした。
三沢は厭《あ》きずにいつまでも例の精神病の娘さんの話をした。自分はこの異様なおのろけを聞くたびに、きっと兄と嫂《あによめ》の事を連想して自《おのず》から不快になった。それで、時々またかという様子を色にも言葉にも表わした。三沢も負けてはいなかった。
「君も君のおのろけを云えば、それで差引損得なしじゃないか」などと自分を冷かした。自分はもうちっとで彼と往来で喧嘩《けんか》をするところであった。
彼にはこういう風に、精神病の娘さんが、影身《かげみ》に添って離れないので、自分はかねて母から頼まれたお重の事を彼に話す余地がなかった。お重の顔は誰が見ても、まあ十人並以上だろうと、仲の善《よ》くない自分にも思えたが、惜《おし》い事に、この大切な娘さんとは、まるで顔の型が違っていた。
自分の遠慮に引き換えて、彼は平気で自分に嫁の候補者を推挙した。「今度《こんだ》どこかでちょっと見て見ないか」と勧めた事もあった。自分は始めこそ生《なま》返事ばかりしていたが、しまいは本気にその女に会おうと思い出した。すると三沢は、まだ機会が来ないから、もう少し、もう少し、と会見の日を順繰《じゅんぐり》に先へ送って行くので、自分はまた気を腐らした末、ついにその女の幻《まぼろし》を離れてしまった。
反対に、お貞さんの方の結婚はいよいよ事実となって現《あらわ》るべく、目前に近《ちかづ》いて来た。お貞さんは相応の年をしている癖に、宅中《うちじゅう》で一番|初心《うぶ》な女であった。これという特色はないが、何を云っても、じき顔を赤くするところに変な愛嬌《あいきょう》があった。
自分は三沢と夜更《よふけ》に寒い町を帰って来て、下宿の冷たい夜具に潜《もぐ》り込みながら、時々お貞さんの事を思い出した。そうして彼女もこんな冷たい夜具を引き担《かつ》ぎながら、今頃は近い未来に逼《せま》る暖かい夢を見て、誰も気のつかない笑い顔を、半《なか》ば天鵞絨《びろうど》の襟《えり》の裡《なか》に埋《うず》めているだろうなどと想像した。
彼女の結婚する二三日前に、岡田と佐野は、氷を裂くような汽車の中から身を顫《ふる》わして新橋の停車場《ステーション》に下りた。彼は迎えに出た自分の顔を見て、いようという掛声《かけごえ》をした。それから「相変らず二郎さんは呑気《のんき》だね」と云った。岡田は己《おの》れの呑気さ加減を自覚しない男のようにも思われた。
翌日番町へ行ったら、岡田一人のために宅中《うちじゅう》騒々しく賑《にぎわ》っていた。兄もほかの事と違うという意味か、別に苦《にが》い顔もせずに、その渦中《かちゅう》に捲込《まきこ》まれて黙っていた。
「二郎さん、今になって下宿するなんて、そんな馬鹿がありますか、家《うち》が淋《さび》しくなるだけじゃありませんか。ねえお直《なお》さん」と彼は嫂《あによめ》に話しかけた。この時だけは嫂もさすが変な顔をして黙っていた。自分も何とも云いようがなかった。兄はかえって冷然とすべてに取り合わない気色《けしき》を見せた。岡田はすでに酔って何事にも拘泥《こうでい》せずへらへら口を動かした。
「もっとも一郎さんも善くないと僕は思いますよ。そうあなた、書斎にばかり引っ込んで勉強していたって、つまらないじゃありませんか。もうあなたぐらい学問をすれば、どこへ出たって引けを取るんじゃないんだからね。しかし二郎さん始め、お直さんや叔母さんも好くないようですね。一郎は書斎よりほかは嫌いだ嫌いだって云っときながら、僕が来てこう引っ張り出せば、訳なく二階から下りて来て、僕と面白そうに話してくれるじゃありませんか。そうでしょう一郎さん」
彼はこう云って兄の方を見た。兄は黙って苦笑《にがわら》いをした。
「ねえ叔母さん」
母も黙っていた。
「ねえお重さん」
彼は返事を受けるまで順々に聞いて廻るらしかった。お重はすぐ「岡田さん、あなたいくら年を取っても饒舌《しゃべ》る病気が癒《なお》らないのね。騒々しいわよ」と云った。それで皆《みん》なが笑い出したので、自分はほっと一《ひ》と息《いき》吐《つ》いた。
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