2008年11月6日木曜日

三十四

 芳江が「叔父さんちょっといらっしゃい」と次の間から小さな手を出して自分を招いた。「何だい」と立って行くと彼女はどこからか、大きな信玄袋《しんげんぶくろ》を引摺《ひきず》り出して、「これお貞さんのよ、見せたげましょうか」と自慢らしく自分を見た。
 彼女は信玄袋の中から天鵞絨《びろうど》で張った四角な箱を出した。自分はその中にある真珠の指環を手に取って、ふんと云いながら眺めた。芳江は「これもよ」と云って、今度は海老茶色《えびちゃいろ》のを出したが、これは自分が洗濯その他《た》の世話になった礼に買ってやった宝石なしの単純な金の指環であった。彼女はまた「これもよ」と云って、繻珍《しゅちん》の紙入を出した。その紙入には模様風に描いた菊の花が金で一面に織り出されていた。彼女はその次に比較的大きくて細長い桐《きり》の箱を出した。これは金と赤銅《しゃくどう》と銀とで、蔦《つた》の葉を綴《つづ》った金具の付いている帯留《おびどめ》であった。最後に彼女は櫛《くし》と笄《こうがい》を示して、「これ卵甲《らんこう》よ。本当の鼈甲《べっこう》じゃないんだって。本当の鼈甲は高過ぎるからおやめにしたんですって」と説明した。自分には卵甲という言葉が解らなかった。芳江には無論解らなかった。けれども女の子だけあって、「これ一番安いのよ。四方張《しほうばり》よか安いのよ。玉子の白味で貼《は》り付けるんだから」と云った。「玉子の白味でどこをどう貼り付けるんだい」と聞くと、彼女は、「そんな事知らないわ」と取り済ました口の利《き》き方《かた》をして、さっさと信玄袋を引き摺《ず》って次の間へ行ってしまった。
 自分は母からお貞さんの当日着る着物を見せて貰った。薄紫がかった御納戸《おなんど》の縮緬《ちりめん》で、紋《もん》は蔦、裾《すそ》の模様は竹であった。
「これじゃあまり閑静《かんせい》過ぎやしませんか、年に合わして」と自分は母に聞いて見た。母は「でもねあんまり高くなるから」と答えた。そうして「これでも御前二十五円かかったんだよ」とつけ加えて、無知識な自分を驚かした。地《じ》は去年の春京都の織屋が背負《しょ》って来た時、白のまま三反ばかり用意に買っておいて、この間まで箪笥《たんす》の抽出《ひきだし》にしまったなり放《ほう》ってあったのだそうである。
 お貞さんは一座の席へ先刻《さっき》から少しも顔を出さなかった。自分はおおかたきまりが悪いのだろうと想像して、そのきまりの悪いところを、ここで一目見たいと思った。
「お貞さんはどこにいるんです」と母に聞いた。すると兄が「ああ忘れた。行く前にちょっとお貞さんに話があるんだった」と云った。
 みんな変な顔をしたうちに、嫂《あによめ》の唇《くちびる》には著るしい冷笑の影が閃《ひら》めいた。兄は誰にも取合う気色《けしき》もなく、「ちょっと失敬」と岡田に挨拶《あいさつ》して、二階へ上がった。その足音が消えると間もなく、お貞さんは自分達のいる室《へや》の敷居際《しきいぎわ》まで来て、岡田に叮嚀《ていねい》な挨拶をした。
 彼女は「さあどうぞ」と会釈《えしゃく》する岡田に、「今ちょっと御書斎まで参らなければなりませんから、いずれのちほど」と答えて立ち上がった。彼女の上気したようにほっと赤くなった顔を見た一座のものは、気の毒なためか何だか、強《し》いて引きとめようともしなかった。
 兄の二階へ上がる足音はそれほど強くはなかったが、いつでも上履《スリッパー》を引掛けているため、ぴしゃぴしゃする響が、下からよく聞こえた。お貞さんのは素足の上に、女のつつましやかな気性《きしょう》をあらわすせいか、まるで聴《き》き取れなかった。戸を開けて戸を閉じる音さえ、自分の耳には全く這入《はい》らなかった。
 彼ら二人はそこで約三十分ばかり何か話していた。その間嫂は平生の冷淡さに引き換えて、尋常《なみ》のものより機嫌《きげん》よく話したり笑ったりした。けれどもその裏に不機嫌を蔵《かく》そうとする不自然の努力が強く潜在している事が自分によく解った。岡田は平気でいた。
 自分は彼女が兄と会見を終って、自分達の室《へや》の横を通る時、その足音を聞きつけて、用あり気に不意と廊下へ出た。ばったり出逢《であ》った彼女の顔は依然として恥ずかしそうに赤く染《そま》っていた。彼女は眼を俯《ふ》せて、自分の傍《そば》を擦《す》り抜けた。その時自分は彼女の瞼《まぶた》に涙の宿った痕迹《こんせき》をたしかに認めたような気がした。けれども書斎に入《い》った彼女が兄と差向いでどんな談話をしたか、それはいまだに知る事を得ない。自分だけではない、その委細を知っているものは、彼ら二人より以外に、おそらく天下に一人もあるまいと思う。

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