2008年11月5日水曜日

二十八

 その翌日《あくるひ》からHさんの手紙が心待に待ち受けられた。自分は一日《いちんち》、二日《ふつか》、三日《みっか》と指を折って日取を勘定《かんじょう》し始めた。けれどもHさんからは何の音信《たより》もなかった。絵端書《えはがき》一枚さえ来なかった。自分は失望した。Hさんに責任を忘れるような軽薄はなかった。しかしこちらの予期通り律義《りちぎ》にそれを果してくれないほどの大悠《たいゆう》はあった。自分は自烈《じれっ》たい部に属する人間の一人として遠くから彼を眺めた。
 すると二人が立ってからちょうど十一日目の晩に、重い封書が始めて自分の手に落ちた。Hさんは罫《けい》の細《こま》かい西洋紙へ、万年筆《まんねんふで》で一面に何か書いて来た。頁《ページ》の数《かず》から云っても、二時間や三時間でできる仕事ではなかった。自分は机の前に縛《くく》りつけられた人形《にんぎょう》のような姿勢で、それを読み始めた。自分の眼には、この小さな黒い字の一点一|劃《かく》も読み落すまいという決心が、焔《ほのお》のごとく輝いた。自分の心は頁の上に釘《くぎ》づけにされた。しかも雪を行く橇《そり》のように、その上を滑《すべ》って行った。要するに自分はHさんの手紙の最初の頁の第一行から読み始めて、最後の頁の最終の文句に至るまでに、どのくらいの時間が要《い》ったかまるで知らなかった。
 手紙は下《しも》のように書いてあった。
「長野君を誘って旅へ出るとき、あなたから頼まれた事を、いったん引き受けるには引き受けたが、いざとなって見ると、とても実行はできまい、またできてもする必要があるまい、もしくは必要と不必要にかかわらず、するのは好《この》もしい事でなかろう、――こういう考えでいました。旅行を始めてから一日《いちにち》二日《ふつか》は、この三つの事情のすべてかあるいは幾分かが常に働くので、これではせっかくの約束も反古《ほご》にしなければならないという気が強く募《つの》りました。それが三日《みっか》四日《よっか》となった時、少し考えさせられました。五日《いつか》六日《むいか》と日を重ねるに従って、考えるばかりでなく、約束通りあなたに手紙を上げるのが、あるいは必要かも知れないと思うようになりました。もっともここにいう必要という意味が、あなたと私とで、だいぶ違うかも知れませんが、それはこの手紙をしまいまで御読みになれば解る事ですから、説明はしません。それから当初私の抱いた好もしくないという倫理上の感じ、これはいくら日数《ひかず》を経過しても取去る訳には行きませんが、片方にある必要の度《ど》が、自然それを抑えつけるほど強くなって来た事もまた確《たしか》であります。おそらく手紙を書いている暇があるまい。――この故障だけは始めあなたに申上げた通りどこまでもつけ纏《まと》って離れませんでした。我々二人はいっしょの室《へや》に寝ます、いっしょの室で飯を食います、散歩に出る時もいっしょです、湯も風呂場の構造が許す限りは、いっしょに這入《はい》ります。こう数え立てて見ると、別々に行動するのは、まあ厠《かわや》に上《のぼ》る時ぐらいなものなのですから。
 無論我々二人は朝から晩までのべつに喋舌《しゃべ》り続けている訳ではありません。御互が勝手な書物を手にしている時もあります、黙って寝転《ねころ》んでいる事もあります。しかし現にその人のいる前で、その人の事を知らん顔で書いて、そうしてそれをそっと他《ひと》に知らせるのはちょっと私にとってはでき悪《にく》いのです。書くべき必要を認め出した私も、これには弱りました。いくら書く機会を見つけよう見つけようと思っても、そんな機会の出て来るはずがないのですから。しかし偶然はついに私の手を導いて、私に私の必要と認める仕事をさせるようにしてくれました。私はそれほど兄さんに気兼《きがね》をせずに、この手紙を書き初めました。そうして同じ状態の下《もと》に、それを書き終る事を希望します。

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