期日になって幾多の群衆が彼の周囲を取巻いた時、モハメッドは約束通り大きな声を出して、向うの山にこっちへ来いと命令しました。ところが山は少しも動き出しません。モハメッドは澄ましたもので、また同じ号令をかけました。それでも山は依然としてじっとしていました。モハメッドはとうとう三度号令を繰返《くりかえ》さなければならなくなりました。しかし三度云っても、動く気色《けしき》の見えない山を眺めた時、彼は群衆に向って云いました。――「約束通り自分は山を呼び寄せた。しかし山の方では来たくないようである。山が来てくれない以上は、自分が行くよりほかに仕方があるまい」。彼はそう云って、すたすた山の方へ歩いて行ったそうです。
この話を読んだ当時の私はまだ若うございました。私はいい滑稽《こっけい》の材料を得たつもりで、それを方々へ持って廻りました。するとそのうちに一人の先輩がありました。みんなが笑うのに、その先輩だけは「ああ結構な話だ。宗教の本義はそこにある。それで尽《つく》している」と云いました。私は解らぬながらも、その言葉に耳を傾けました。私が小田原で兄さんに同じ話を繰返したのは、それから何年目になりますか、話は同じ話でも、もう滑稽《こっけい》のためではなかったのです。
「なぜ山の方へ歩いて行かない」
私が兄さんにこう云っても、兄さんは黙っています。私は兄さんに私の主意が徹しないのを恐れて、つけ足《た》しました。
「君は山を呼び寄せる男だ。呼び寄せて来ないと怒る男だ。地団太《じだんだ》を踏んで口惜《くや》しがる男だ。そうして山を悪く批判する事だけを考える男だ。なぜ山の方へ歩いて行かない」
「もし向うがこっちへ来るべき義務があったらどうだ」と兄さんが云います。
「向うに義務があろうとあるまいと、こっちに必要があればこっちで行くだけの事だ」と私が答えます。
「義務のないところに必要のあるはずがない」と兄さんが主張します。
「じゃ幸福のために行くさ。必要のために行きたくないなら」と私がまた答えます。
兄さんはこれでまた黙りました。私のいう意味はよく兄さんに解っているのです。けれども是非、善悪、美醜の区別において、自分の今日《こんにち》までに養い上げた高い標準を、生活の中心としなければ生きていられない兄さんは、さらりとそれを擲《なげう》って、幸福を求める気になれないのです。むしろそれにぶら下《さ》がりながら、幸福を得ようと焦燥《あせ》るのです。そうしてその矛盾も兄さんにはよく呑《の》み込めているのです。
「自分を生活の心棒《しんぼう》と思わないで、綺麗《きれい》に投げ出したら、もっと楽《らく》になれるよ」と私がまた兄さんに云いました。
「じゃ何を心棒にして生きて行くんだ」と兄さんが聞きました。
「神さ」と私が答えました。
「神とは何だ」と兄さんがまた聞きました。
私はここでちょっと自白しなければなりません。私と兄さんとこう問答をしているところを御読みになるあなたには、私がさも宗教家らしく映ずるかも知れませんが、――私がどうかして兄さんを信仰の道に引き入れようと力《つと》めているように見えるかも知れませんが、実を云うと、私は耶蘇《ヤソ》にもモハメッドにも縁のない、平凡なただの人間に過ぎないのです。宗教というものをそれほど必要とも思わないで、漫然と育った自然の野人なのです。話がとかくそちらへ向くのは、全く相手に兄さんという烈《はげ》しい煩悶家《はんもんか》を控えているためだったのです。
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