私が兄さんにやられた原因も全くそこにあったのです。事実私は神というものを知らない癖に、神という言葉を口にしました。兄さんから反問された時に、それは天とか命《めい》とかいう意味と同じものだと漠然《ばくぜん》答えておいたら、まだよかったかも知れません。ところが前後の行きがかり上、私にはそんな説明の余裕がなくなりました。その時の問答はたしか下《しも》のような順序で進行したかと思います。
私「世の中の事が自分の思うようにばかりならない以上、そこに自分以外の意志が働いているという事実を認めなくてはなるまい」
「認めている」
私「そうしてその意志は君のよりも遥《はるか》に偉大じゃないか」
「偉大かも知れない、僕が負けるんだから。けれども大概は僕のよりも不善《ふぜん》で不美《ふび》で不真《ふしん》だ。僕は彼らに負かされる訳がないのに負かされる。だから腹が立つのだ」
私「それは御互《おたがい》に弱い人間同志の競合《せりあい》を云うんだろう。僕のはそうじゃない、もっと大きなものを指《さ》すのだ」
「そんな瞹眛《あいまい》なものがどこにある」
私「なければ君を救う事ができないだけの話だ」
「じゃしばらくあると仮定して……」
私「万事そっちへ委任してしまうのさ。何分|宜《よろ》しく御頼み申しますって。君、俥《くるま》に乗ったら、落《おっ》ことさないように車夫《くるまや》が引いてくれるだろうと安心して、俥の上で寝る事はできないか」
「僕は車夫ほど信用できる神を知らないのだ。君だってそうだろう。君のいう事は、全く僕のために拵《こしら》えた説教で、君自身に実行する経典じゃないのだろう」
私「そうじゃない」
「じゃ君は全く我《が》を投げ出しているね」
私「まあそうだ」
「死のうが生きようが、神の方で好いように取計ってくれると思って安心しているね」
私「まあそうだ」
私は兄さんからこう詰寄せられた時、だんだん危《あや》しくなって来るような気がしました。けれども前後の勢いが自分を支配している最中《さいちゅう》なので、またどうする訳にも行きません。すると兄さんが突然手を挙《あ》げて、私の横面《よこつら》をぴしゃりと打ちました。
私は御承知の通りよほど神経の鈍《にぶ》くできた性質《たち》です。御蔭《おかげ》で今日《こんにち》まで余り人と争った事もなく、また人を怒らした試《ためし》も知らずに過ぎました。私の鈍《のろ》いせいでもあったでしょうが、子供の時ですら親に打たれた覚えはありません。成人しては無論の事です。生れて始めて手を顔に加えられた私はその時われ知らずむっとしました。
「何をするんだ」
「それ見ろ」
私にはこの「それ見ろ」が解らなかったのです。
「乱暴じゃないか」と私が云いました。
「それ見ろ。少しも神に信頼していないじゃないか。やっぱり怒るじゃないか。ちょっとした事で気分の平均を失うじゃないか。落ちつきが顛覆《てんぷく》するじゃないか」
私は何とも答えませんでした。また何とも答えられませんでした。そのうちに兄さんはつと座を立ちました。私の耳にはどんどん階子段《はしごだん》を馳《か》け下りて行く兄さんの足音だけが残りました。
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