私は下女を呼んで伴《つれ》の御客さんはどうしたと聞いて見ました。
「今しがた表へ御出になりました。おおかた浜でしょう」
下女の返事が私の想像と一致したので、私はそれ以上の掛念《けねん》を省《はぶ》いて、ごろりとそこに横になりました。すると衣桁《いこう》の端《はじ》にかかっている兄さんの夏帽子がすぐ眼に着きました。兄さんはこの暑いのに帽子も被《かぶ》らずにどこかへ飛び出して行ったのです。あなたのように、兄さんの一挙一動を心配する人から見たら、仰向《あおむ》けに寝そべったその時の私の姿は、少し呑気《のんき》過ぎたかも知れません。これは固《もと》より私の鈍《のろ》い神経の仕業《しわざ》に違ないのです。けれどもただ鈍いだけで説明する以外に、もう少し御参考になる点も交っているようですから、それをちょっと申上げます。
私は兄さんの頭を信じていました。私よりも鋭敏な兄さんの理解力に尊敬を払っていました。兄さんは時々普通の人に解らないような事を出し抜けに云います。それが知らないものの耳や、教育の乏しい男の耳には、どこかに破目《われめ》の入った鐘の音《ね》として、変に響くでしょうけれども、よく兄さんを心得た私には、かえって習慣的な言説よりはありがたかったのです。私は平生からそこに兄さんの特色を認めていました。だから心配の必要はないと、あれほど強くあなたに断言して憚《はばか》らなかったのです。それでいっしょに旅に出ました。旅へ出てからの兄さんは今まで私が叙述して来た通りですが、私はこの旅行先の兄さんのために、少しずつ故《もと》の考えを訂正しなければならないようになって来たのです。
私は兄さんの頭が、私より判然《はっきり》と整《ととの》っている事について、今でも少しの疑いを挟《さしは》さむ余地はないと思います。しかし人間としての今の兄さんは、故《もと》に較《くら》べると、どこか乱れているようです。そうしてその乱れる原因を考えて見ると、判然《はっきり》と整った彼の頭の働きそのものから来ているのです。私から云えば、整った頭には敬意を表したいし、また乱れた心には疑いをおきたいのですが、兄さんから見れば、整った頭、取りも直さず乱れた心なのです。私はそれで迷います。頭は確《たしか》である、しかし気はことによると少し変かも知れない。信用はできる、しかし信用はできない。こう云ったらあなたはそれを満足な報道として受け取られるでしょうか。それよりほかに云いようのない私は、自分自身ですでに困ってしまったのです。
私は梯子段《はしごだん》をどんどん馳《か》け下りて行った兄さんをそのままにして、ごろりと横になりました。私はそれほど安心していたのです。帽子も被らずに出て行ったくらいだから、すぐ帰るにきまっていると考えたのです。しかし兄さんは予想通りそう手軽くは戻りませんでした。すると私もついに大の字になっていられなくなりました。私はしまいに明らかな不安を抱いて起《た》ち上りました。
浜へ出ると、日はいつか雲に隠れていました。薄どんよりと曇り掛けた空と、その下にある磯《いそ》と海が、同じ灰色を浴びて、物憂《ものう》く見える中を、妙に生温《なまぬる》い風が磯臭《いそくさ》く吹いて来ました。私はその灰色を彩《いろ》どる一点として、向うの波打際《なみうちぎわ》に蹲踞《しゃが》んでいる兄さんの姿を、白く認めました。私は黙ってその方角へ歩いて行きました。私は後《うしろ》から声をかけた時、兄さんはすぐ立ち上って「先刻《さっき》は失敬した」と云いました。
兄さんは目的《あて》もなくまたとめどもなくそこいらを歩いたあげく、しまいに疲れたなりで疲れた場所に蹲踞んでしまったのだそうです。
「山に行こう。もうここは厭《いや》になった。山に行こう」
兄さんは今にも山へ行きたい風でした。
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