2008年11月5日水曜日

三十九

「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」
 兄さんははたしてこう云い出しました。その時兄さんの顔は、むしろ絶望の谷に赴《おもむ》く人のように見えました。
「しかし宗教にはどうも這入《はい》れそうもない。死ぬのも未練に食いとめられそうだ。なればまあ気違だな。しかし未来の僕はさておいて、現在の僕は君|正気《しょうき》なんだろうかな。もうすでにどうかなっているんじゃないかしら。僕は怖《こわ》くてたまらない」
 兄さんは立って縁側《えんがわ》へ出ました。そこから見える海を手摺《てすり》に倚《よ》ってしばらく眺めていました。それから室《へや》の前を二三度行ったり来たりした後《あと》、また元の所へ帰って来ました。
「椅子ぐらい失って心の平和を乱されるマラルメは幸いなものだ。僕はもうたいていなものを失っている。わずかに自己の所有として残っているこの肉体さえ、(この手や足さえ、)遠慮なく僕を裏切るくらいだから」
 兄さんのこの言葉は、好い加減な形容ではないのです。昔から内省の力に勝っていた兄さんは、あまり考えた結果として、今はこの力の威圧に苦しみ出しているのです。兄さんは自分の心がどんな状態にあろうとも、一応それを振り返って吟味した上でないと、けっして前へ進めなくなっています。だから兄さんの命の流れは、刹那《せつな》刹那にぽつぽつと中断されるのです。食事中一分ごとに電話口へ呼び出されるのと同じ事で、苦しいに違《ちがい》ありません。しかし中断するのも兄さんの心なら、中断されるのも兄さんの心ですから、兄さんはつまるところ二つの心に支配されていて、その二つの心が嫁《よめ》と姑《しゅうと》のように朝から晩まで責めたり、責められたりしているために、寸時の安心も得られないのです。
 私は兄さんの話を聞いて、始めて何も考えていない人の顔が一番|気高《けだか》いと云った兄さんの心を理解する事ができました。兄さんがこの判断に到着したのは、全く考えた御蔭《おかげ》です。しかし考えた御蔭でこの境界《きょうがい》には這入れないのです。兄さんは幸福になりたいと思って、ただ幸福の研究ばかりしたのです。ところがいくら研究を積んでも、幸福は依然として対岸にあったのです。
 私はとうとう兄さんの前に神という言葉を持ち出しました。そうして意外にも突然兄さんから頭を打たれました。しかしこれは小田原で起った最後の幕です。頭を打たれる前にまだ一節《いっせつ》ありますから、まずそれから御報知しようと思います。しかし前にも申した通り、あなたと私とはまるで専門が違いますので、私の筆にする事が、時によると変に物識《ものしり》めいた余計《よけい》な云《い》い草《ぐさ》のように、あなたの眼に映るかも知れません。それであなたに関係のない片仮名などを入れる時は、なおさら躊躇《ちゅうちょ》しがちになりますが、これでも必要と認めない限り、なるべくそんな性質《たち》の文字は、省《はぶ》いているのですから、あなたもそのつもりで虚心に読んで下さい。少しでもあなたの心に軽薄という疑念が起るようでは、せっかく書いて上げたものが、前後を通じて、何の役にも立たなくなる恐れがありますから。
 私がまだ学校にいた時分、モハメッドについて伝えられた下《しも》のような物語を、何かの書物で読んだ事があります。モハメッドは向うに見える大きな山を、自分の足元へ呼び寄せて見せるというのだそうです。それを見たいものは何月何日を期してどこへ集まれというのだそうです。

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