2008年11月5日水曜日

三十

 我々は二人とも大した旅行癖《りょこうへき》のない男です。したがって我々の編み上げた旅程もまた経験相応に平凡でした。近くて便利な所を人並に廻って歩けば、それで目的の大半は達せられるくらいな考えで、まず相模《さがみ》伊豆|辺《あたり》をぼんやり心がけました。
 それでも私の方が兄さんよりはまだましでした。私は主要な場所と、そこへ行くべき交通機関とをほぼ承知していましたが、兄さんに至ってはほとんど地理や方角を超越していました。兄さんは国府津《こうづ》が小田原《おだわら》の手前か先か知りませんでした。知らないというよりむしろ構わないのでしょう。これほど一方に無頓着《むとんじゃく》な兄さんが、なぜ人事上のあらゆる方面に、同じ平然たる態度を見せる事ができないのかと思うと、私は実際不思議な感に打たれざるを得ません。しかしそれは余事です。話が逸《そ》れると戻り悪《にく》くなりますから、なるべく本流を伝《つた》って、筋を離れないように進む事にしましょう。
 我々は始め逗子《ずし》を基点として出発する事に相談をきめていました。ところがその朝新橋へ駆《か》けつける俥《くるま》の上で、ふと私の考えが変りました。いかに平凡な旅行にしても、真先に逗子へ行くのは、あまりに平凡過ぎて気が進まなくなったのです。私は停車場《ステーション》で兄さんに相談の仕直しをやりました。私は行程を逆にして、まず沼津から修善寺《しゅぜんじ》へ出て、それから山越《やまごし》に伊東の方へ下りようと云いました。小田原と国府津の後先《あとさき》さえ知らない兄さんに異存のあるはずがないので、我々はすぐ沼津までの切符を買って、そのまま東海道行の汽車に乗り込みました。
 汽車中では報知に値《あたい》するような事が別に起りませんでした。先方へ着いても、風呂へ入ったり、飯を食ったり、茶を飲んだりする間は、これといって目に着く点もなかったのです。私は兄さんについて、これはことによると家族の人の参考のために、知らせておく必要があるかも知れないと思い出したのは、その日の晩になってからであります。
 寝るには早過ぎました。話にはもう飽《あ》きました。私は旅行中に誰でも経験する一種の徒然《とぜん》に襲われました。ふと床の間の脇《わき》を見ると、そこに重そうな碁盤《ごばん》が一面あったので、私はすぐそれを室《へや》の真中へ持ち出しました。無論兄さんを相手に黒白《こくびゃく》を争うつもりでした。あなたは御存じだかどうだか知りませんが、私は学校にいた時分、これでよく兄さんと碁《ご》を打ったものです。その後《ご》二人とも申し合せたように、ぴたりとやめてしまいましたが、この場合、二人が持て余している時間を、面白く過ごすには碁盤が屈強の道具に違なかったのです。
 兄さんはしばらく碁盤を眺めていました。そうしておいて「まあ止そう」と云いました。私は思い込んだ勢いで、「そう云わずにやろうじゃないか」と押し返しました。それでも兄さんは「いやいやまあ止そう」と云います。兄さんの顔を見ると、眼と眉《まゆ》の間に変な表情がありました。それが何の碁なんぞと云った風の軽蔑《けいべつ》または無頓着《むとんじゃく》を示していないのですから、私はちょっと異《い》な心持がしました。しかし無理に強《し》いるのも厭《いや》ですから、私はとうとう一人で碁石を取り上げて、黒と白を打手違《うつてちがい》に、盤の上に並べ始めました。兄さんは少しの間それを見ていました。私がなお黙って打ち続けて行きますと、兄さんは不意に座を立って廊下へ出ました。おおかた便所へでも行ったのだろうと思った私は、いっこう兄さんの挙動には注意を払いませんでした。

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