2008年11月5日水曜日

十七

 四月はいつの間にか過ぎた。花は上野から向島、それから荒川という順序で、だんだん咲いていってだんだん散ってしまった。自分は一年のうちで人の最も嬉《うれ》しがるこの花の時節を無為《むい》に送った。しかし月が替《かわ》って世の中が青葉で包まれ出してから、ふり返ってやり過ごした春を眺めるとはなはだ物足りなかった。それでも無為に送れただけがありがたかった。
 家《うち》へはその後《のち》一回も足を向けなかった。家からも誰一人尋ねて来なかった。電話は母とお重から一二度かかったが、それは自分の着る着物についての用事に過ぎなかった。三沢には全く会わなかった。大阪の岡田からは花の盛りに絵端書《えはがき》がまた一枚来た。前と同じようにお貞さんやお兼《かね》さんの署名があった。
 自分は事務所へ通う動物のごとく暮していた。すると五月の末になって突然三沢から大きな招待状を送って来た。自分は結婚の通知と早合点して封を裂いた。ところが案外にもそれは富士見町の雅楽稽古所からの案内状であった。「六月二日音楽演習相催し候間《そろあいだ》同日午後一時より御来聴|被下度候《くだされたくそろ》此段御案内申進|候也《そろなり》」と書いてあった。今までこういう方面に関係があるとは思わなかった三沢が、どうしてこんな案内状を自分に送ったのか、まるで解らなかった。半日の後自分はまた彼の手紙を受け取った。その手紙には、六月二日には、是非来いという文句が添えてあった。是非来いというくらいだから彼自身は無論行くにきまっている。自分はせっかくだからまず行って見ようと思い定めた。けれども、雅楽そのものについては大した期待も何もなかった。それよりも自分の気分に転化の刺戟《しげき》を与えたのは、三沢が余事のごとく名宛《なあて》のあとへ付け足した、短い報知であった。
「Hさんは嘘《うそ》を吐《つ》かない人だ。Hさんはとうとう君の兄さんを説き伏せた。この六月学校の講義を切り上げ次第、二人はどこかへ旅をする事に約束ができたそうだ」
 自分は父のため母のためかつ兄自身のため喜んだ。あの兄がHさんに対して旅行しようと約束する気分になったとすれば、単にそれだけでも彼には大きい変化であった。偽りの嫌《きら》いな彼は必ずそれを実行するつもりでいるに違いなかった。
 自分は父にも母にも実否を問い合わせなかった。Hさんに向ってもその消息を確める手段を取らなかった。ただ三沢の口からもう少し精《くわ》しいところを聞かせて貰いたかった。それも今度会った時で構わないという気があるので、彼の是非来いという六月二日が暗《あん》に待ち受けられた。
 六月二日はあいにく雨であった。十一時頃には少し歇《や》んだが、季節が季節なのでからりとは晴れなかった。往来を行く人は傘をさしたり畳んだりした。見附外《みつけそと》の柳は煙のように長い枝を垂れていた。その下を通ると、青白い粉《こ》か黴《かび》が着物にくっついていつまでも落ちないように感ぜられた。
 雅楽所の門内には俥《くるま》がたくさん並んでいた。馬車も一二台いた。しかし自動車は一つも見えなかった。自分は玄関先で帽子を人に渡した。その人は金の釦鈕《ボタン》のついた制服のようなものを着ていた。もう一人の人が自分を観覧席へ連れて行ってくれた。
「そこいらへおかけなすって」
 彼はそう云ってまた玄関の方へ帰って行った。椅子はまだ疎《まば》らに占領されているだけであった。自分はなるべく人の眼に着かないように後列の一脚に腰を下《おろ》した。

0 件のコメント: