2008年11月5日水曜日

十六

 自分は首を長くしてHさんの消息を待った。花のたよりが都下の新聞を賑《にぎわ》し始めた一週間の後《のち》になっても、Hさんからは何の通知もなかった。自分は失望した。電話を番町へかけて聞き合せるのも厭《いや》になった。どうでもするが好いという気分でじっとしていた。そこへ三沢が来た。
「どうも旨《うま》く行かないそうだ」
 事実ははたして自分の想像した通りであった。兄はHさんの勧誘を断然断ってしまった。Hさんはやむをえず三沢を呼んで、その結果を自分に伝えるように頼んだ。
「それでわざわざ来てくれたのかい」
「まあそうだ」
「どうも御苦労さま、すまない」
 自分はこれ以上何を云う気も起らなかった。
「Hさんはああ云う人だから、自分の責任のように気の毒がっている。今度は事があまり突然なので旨く行かなかったが、この次の夏休みには是非どこかへ連れ出すつもりだと云っていた」
 自分はこういう慰藉《いしゃ》をもたらしてくれた三沢の顔を見て苦笑した。Hさんのような大悠《たいゆう》な人から見たら、春休みも夏休みも同じ事なんだろうけれども、内側で働いている自分達の眼には、夏休みといえば遠い未来であった。その遠い未来と現在の間には大きな不安が潜《ひそ》んでいた。
「しかしまあ仕方がない。元々こっちで勝手なプログラムを拵《こしら》えておいて、それに当てはまるように兄を自由に動かそうというんだから」
 自分はとうとう諦《あきら》めた。三沢は何にも批評せずに、机の角に肱《ひじ》を突き立てて、その上に顋《あご》を載せたなり自分の顔を眺めていた。彼はしばらくしてから、「だから僕のいう通りにすれば好いんだ」と云った。
 この間Hさんに兄の事を依頼しに行った帰《かえ》り途《みち》に、無言な彼は突然往来の真中で自分を驚かしたのである。今まで兄の事について一言《いちごん》も発しなかった彼は、その時不意に自分の肩を突いて、「君兄さんを旅行させるの、快活にするのって心配するより、自分で早く結婚した方が好かないか。その方がつまり君の得だぜ」と云った。
 彼が自分に結婚を勧めたのは、その晩が始めてではなかった。自分はいつも相手がないとばかり彼に答えていた。彼はしまいに相手を拵えてやると云い出した。そうして一時はそれがほとんど事実になりかけた事もあった。
 自分はその晩の彼に向ってもやはり同じような挨拶《あいさつ》をした。彼はそれをいつもより冷淡なものとして記憶していたのである。
「じゃ君のいう通りにするから、本当に相手を出してくれるかい」
「本当に僕のいう通りにすれば、本当に好いのを出す」
 彼は実際心当りがあるような口を利《き》いた。近いうち彼の娶《めと》るべき女からでも聞いたのだろう。
 彼はもう大きな黒い眼をもった精神病の御嬢さんについては多くを語らなかった。
「君の未来の細君はやっぱりああいう顔立なんだろう」
「さあどうかな。いずれそのうち引き合わせるから見てくれたまえ」
「結婚式はいつだい」
「ことによると向うの都合で秋まで延ばすかも知れない」
 彼は愉快らしかった。彼は来るべき彼の生活に、彼のもっている過去の詩を投げかけていた。

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