2008年11月5日水曜日

四十五

 私はこの場合にも自分の頭が兄さんに及ばないという事を自白しなければなりません。私は人間として、はたして兄さんのいうような境界に達せられべきものかをまだ考えていなかったのです。明瞭《めいりょう》な順序で自然そこに帰着《きちゃく》して行く兄さんの話を聞いた時、なるほどそんなものかと思いました。またそんなものでも無かろうかとも思いました。何しろ私はとかくの是非を挟《さしは》さむだけの資格をもっていない人間に過ぎませんでした。私は黙々として熱烈な言葉の前に坐《すわ》りました。すると兄さんの態度が変りました。私の沈黙が鋭い兄さんの鉾先《ほこさき》を鈍《にぶ》らせた例は、今までにも何遍かありました。そうしてそれがことごとく偶然から来ているのです。もっとも兄さんのような聡明《そうめい》な人に、一種の思わくから黙って見せるという技巧《ぎこう》を弄《ろう》したら、すぐ観破《かんぱ》されるにきまっていますから、私の鈍《のろ》いのも時には一得《いっとく》になったのでしょう。
「君、僕を単に口舌《こうぜつ》の人と軽蔑《けいべつ》してくれるな」と云った兄さんは、急に私の前に手を突きました。私は挨拶《あいさつ》に窮しました。
「君のような重厚《ちょうこう》な人間から見たら僕はいかにも軽薄なお喋舌《しゃべり》に違ない。しかし僕はこれでも口で云う事を実行したがっているんだ。実行しなければならないと朝晩《あさばん》考え続けに考えているんだ。実行しなければ生きていられないとまで思いつめているんだ」
 私は依然として挨拶に困ったままでした。
「君、僕の考えを間違っていると思うか」と兄さんが聞きました。
「そうは思わない」と私が答えました。
「徹底していないと思うか」と兄さんがまた聞きました。
「根本的《こんぽんてき》のようだ」と私がまた答えました。
「しかしどうしたらこの研究的な僕が、実行的な僕に変化できるだろう。どうぞ教えてくれ」と兄さんが頼むのです。
「僕にそんな力があるものか」と、思いも寄らない私は断るのです。
「いやある。君は実行的に生れた人だ。だから幸福なんだ。そう落ちついていられるんだ」と兄さんが繰り返すのです。
 兄さんは真剣のようでした。私はその時|憮然《ぶぜん》として兄さんに向いました。
「君の智慧《ちえ》は遥《はるか》に僕に優《まさ》っている。僕にはとても君を救う事はできない。僕の力は僕より鈍《のろ》いものになら、あるいは及ぼし得るかも知れない。しかし僕より聡明な君には全く無効である。要するに君は瘠《や》せて丈《たけ》が長く生れた男で、僕は肥えてずんぐり育った人間なんだ。僕の真似をして肥《ふと》ろうと思うなら、君は君の背丈《せい》を縮《ちぢ》めるよりほかに途《みち》はないんだろう」
 兄さんは眼からぽろぽろ涙を出しました。
「僕は明かに絶対の境地を認めている。しかし僕の世界観が明かになればなるほど、絶対は僕と離れてしまう。要するに僕は図《ず》を披《ひら》いて地理を調査する人だったのだ。それでいて脚絆《きゃはん》を着けて山河《さんか》を跋渉《ばっしょう》する実地の人と、同じ経験をしようと焦慮《あせ》り抜いているのだ。僕は迂濶《うかつ》なのだ。僕は矛盾なのだ。しかし迂濶と知り矛盾と知りながら、依然としてもがいている。僕は馬鹿だ。人間としての君は遥に僕よりも偉大だ」
 兄さんはまた私の前に手を突きました。そうしてあたかも謝罪でもする時のように頭を下げました。涙がぽたりぽたりと兄さんの眼から落ちました。私は恐縮しました。

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