2008年11月5日水曜日

四十四

 あなたも現代の青年だから宗教という古めかしい言葉に対してあまり同情は持っていられないでしょう。私も小《こ》むずかしい事はなるべく言わずにすましたいのです。けれども兄さんを理解するためには、ぜひともそこへ触れて来なければなりません。あなたには興味もなかろうし、また意外でもあろうけれども、それを遠慮する以上、肝腎《かんじん》の兄さんが不可解になるだけだから、辛抱してここのところをとばさずに読んで下さい。辛抱さえなされば、あなたにはよく解る事なんです。読んでそうして善《よ》く兄さんを呑《の》み込んだ上、御老人方の合点《がてん》のゆかれるように御宅へ紹介して上げて下さい。私は兄さんについて過度の心労をされる御年寄に対して実際御気の毒に思っています。しかし今のところあなたを通してよりほかに、ありのままの兄さんを、兄さんの家庭に知らせる手段はないのだから、あなたも少し真面目《まじめ》になって、聞き慣れない字面《じづら》に眼を御注《おそそ》ぎなさい。私は酔興《すいきょう》でむずかしい事を書くのではありません。むずかしい事が活きた兄さんの一部分なのだから仕方がないのです。二つを引き離すと血や肉からできた兄さんもまた存在しなくなるのです。
 兄さんは神でも仏《ほとけ》でも何でも自分以外に権威のあるものを建立《こんりゅう》するのが嫌《きら》いなのです。(この建立という言葉も兄さんの使ったままを、私が踏襲《とうしゅう》するのです)。それではニイチェのような自我を主張するのかというとそうでもないのです。
「神は自己だ」と兄さんが云います。兄さんがこう強い断案を下す調子を、知らない人が蔭《かげ》で聞いていると、少し変だと思うかも知れません。兄さんは変だと思われても仕方のないような激した云い方をします。
「じゃ自分が絶対だと主張すると同じ事じゃないか」と私が非難します。兄さんは動きません。
「僕は絶対だ」と云います。
 こういう問答を重《かさ》ねれば重ねるほど、兄さんの調子はますます変になって来ます。調子ばかりではありません、云う事もしだいに尋常を外《はず》れて来ます。相手がもし私のようなものでなかったならば、兄さんは最後まで行かないうちに、純粋な気違として早く葬られ去ったに違ありません。しかし私はそう容易《たやす》く彼を見棄《みす》てるほどに、兄さんを軽んじてはいませんでした。私はとうとう兄さんを底まで押しつめました。
 兄さんの絶対というのは、哲学者の頭から割り出された空《むな》しい紙の上の数字ではなかったのです。自分でその境地《きょうち》に入って親しく経験する事のできる判切《はっきり》した心理的のものだったのです。
 兄さんは純粋に心の落ちつきを得た人は、求めないでも自然にこの境地に入れるべきだと云います。一度《ひとたび》この境界《きょうがい》に入れば天地も万有も、すべての対象というものがことごとくなくなって、ただ自分だけが存在するのだと云います。そうしてその時の自分は有るとも無いとも片のつかないものだと云います。偉大なようなまた微細なようなものだと云います。何とも名のつけようのないものだと云います。すなわち絶対だと云います。そうしてその絶対を経験している人が、俄然《がぜん》として半鐘《はんしょう》の音を聞くとすると、その半鐘の音はすなわち自分だというのです。言葉を換えて同じ意味を表わすと、絶対即相対になるのだというのです、したがって自分以外に物を置き他《ひと》を作って、苦しむ必要がなくなるし、また苦しめられる掛念《けねん》も起らないのだと云うのです。
「根本義《こんぽんぎ》は死んでも生きても同じ事にならなければ、どうしても安心は得られない。すべからく現代を超越すべしといった才人はとにかく、僕は是非共|生死《しょうじ》を超越しなければ駄目だと思う」
 兄さんはほとんど歯を喰いしばる勢《いきおい》でこう言明しました。

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