私はお貞さんのつづきでも出る事と思って、暗い中でそれとなく兄さんの声を待ち受けていたのですが、兄さんは煙草に魅《み》せられた人のように、時々紙巻の先を赤くするだけで、なかなか口を開きません。それを石段の下へ投げて私の方へ向いた時は、もう話題がお貞さんを離れていました。私は少し意外に思いました。兄さんの題目は、お貞さんに関係のないばかりか、ピアノの音にも、広い芝生にも、美しい別荘にも、乃至《ないし》は避暑にも旅行にも、すべて我々の周囲と現在とは全く交渉を絶った昔の坊さんの事でした。
坊さんの名はたしか香厳《きょうげん》とか云いました。俗にいう一を問えば十を答え、十を問えば百を答えるといった風の、聡明霊利《そうめいれいり》に生れついた人なのだそうです。ところがその聡明霊利が悟道《ごどう》の邪魔になって、いつまで経《た》っても道に入れなかったと兄さんは語りました。悟《さとり》を知らない私にもこの意味はよく通じます。自分の智慧《ちえ》に苦しみ抜いている兄さんにはなおさら痛切に解っているでしょう。兄さんは「全く多知多解《たちたげ》が煩《わずらい》をなしたのだ」ととくに注意したくらいです。
数年《すねん》の間|百丈禅師《ひゃくじょうぜんじ》とかいう和尚《おしょう》さんについて参禅したこの坊さんはついに何の得るところもないうちに師に死なれてしまったのです。それで今度は※[#「さんずい+爲」、第3水準1-87-10]山《いさん》という人の許《もと》に行きました。※[#「さんずい+爲」、第3水準1-87-10]山は御前のような意解識想《いげしきそう》をふり舞わして得意がる男はとても駄目《だめ》だと叱りつけたそうです。父も母も生れない先の姿になって出て来いと云ったそうです。坊さんは寮舎に帰って、平生読み破った書物上の知識を残らず点検したあげく、ああああ画《え》に描《か》いた餅《もち》はやはり腹の足《たし》にならなかったと嘆息したと云います。そこで今まで集めた書物をすっかり焼き棄《す》ててしまったのです。
「もう諦《あきら》めた。これからはただ粥《かゆ》を啜《すす》って生きて行こう」
こう云った彼は、それ以後禅のぜの字も考えなくなったのです。善も投げ悪も投げ、父母《ちちはは》の生れない先の姿も投げ、いっさいを放下《ほうげ》し尽してしまったのです。それからある閑寂《かんじゃく》な所を選んで小さな庵《いおり》を建てる気になりました。彼はそこにある草を芟《か》りました。そこにある株を掘り起しました。地ならしをするために、そこにある石を取って除《の》けました。するとその石の一つが竹藪《たけやぶ》にあたって戞然《かつぜん》と鳴りました。彼はこの朗《ほがら》かな響を聞いて、はっと悟《さと》ったそうです。そうして一撃《いちげき》に所知《しょち》を亡《うしな》うと云って喜んだといいます。
「どうかして香厳になりたい」と兄さんが云います。兄さんの意味はあなたにもよく解るでしょう。いっさいの重荷を卸《おろ》して楽《らく》になりたいのです。兄さんはその重荷を預かって貰う神をもっていないのです。だから掃溜《はきだめ》か何かへ棄《す》ててしまいたいと云うのです。兄さんは聡明な点においてよくこの香厳《きょうげん》という坊さんに似ています。だからなおのこと香厳が羨《うらや》ましいのでしょう。
兄さんの話は西洋人の別荘や、ハイカラな楽器とは、全く縁の遠いものでした。なぜ兄さんが暗い石段の上で、磯《いそ》の香《か》を嗅《か》ぎながら、突然こんな話をし出したか、それは私には解りません。兄さんの話が済んだ頃はピアノの音ももう聞こえませんでした。潮《しお》に近いためか、夜露のせいか、浴衣《ゆかた》が湿《しめ》っぽくなっていました。私は兄さんを促《うなが》してまたもとの道へ引き返しました。往来へ出た時、私は行きつけの菓子屋へ寄って饅頭《まんじゅう》を買いました。それを食いながら暗い中を黙って宅《うち》まで帰って来ました。留守《るす》を頼んでおいた爺《じい》さんの所の子供は、蚊《か》に喰われるのも構わずぐうぐう寝ていました。私は饅頭の余りをやって、すぐ子供を帰してやりました。
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