2008年11月5日水曜日

三十三

 翌日《あくるひ》も我々は同じ所に泊《とま》っていました。朝起き抜けに浜辺を歩いた時、兄さんは眠っているような深い海を眺めて、「海もこう静かだと好いね」と喜びました。近頃の兄さんは何でも動かないものが懐《なつ》かしいのだそうです。その意味で水よりも山が気に入るのでした。気に入ると云っても、普通の人間が自然を楽しむ時の心持とは少し違うようです。それは下《しも》に挙《あ》げる兄さんの言葉で御解りになるでしょう。
「こうして髭《ひげ》を生やしたり、洋服を着たり、シガーを銜《くわ》えたりするところは上部《うわべ》から見ると、いかにも一人前《ひとりまえ》の紳士らしいが、実際僕の心は宿なしの乞食《こじき》みたように朝から晩までうろうろしている。二六時中不安に追いかけられている。情ないほど落ちつけない。しまいには世の中で自分ほど修養のできていない気の毒な人間はあるまいと思う。そういう時に、電車の中やなにかで、ふと眼を上げて向う側を見ると、いかにも苦《く》のなさそうな顔に出っ食わす事がある。自分の眼が、ひとたびその邪念の萌《きざ》さないぽかんとした顔に注《そそ》ぐ瞬間に、僕はしみじみ嬉しいという刺戟《しげき》を総身《そうしん》に受ける。僕の心は旱魃《かんばつ》に枯れかかった稲の穂が膏雨《こうう》を得たように蘇《よみが》える。同時にその顔――何も考えていない、全く落ちつき払ったその顔が、大変気高く見える。眼が下っていても、鼻が低くっても、雑作《ぞうさく》はどうあろうとも、非常に気高く見える。僕はほとんど宗教心に近い敬虔《けいけん》の念をもって、その顔の前に跪《ひざま》ずいて感謝の意を表したくなる。自然に対する僕の態度も全く同じ事だ。昔のようにただうつくしいから玩《もてあそ》ぶという心持は、今の僕には起る余裕がない」
 兄さんはその時電車のなかで偶然見当る尊《たっと》い顔の部類の中《うち》へ、私を加えました。私は思いも寄らん事だと云って辞退しました。すると兄さんは真面目《まじめ》な態度でこう云いました。
「君でも一日のうちに、損も得も要《い》らない、善も悪も考えない、ただ天然のままの心を天然のまま顔に出している事が、一度や二度はあるだろう。僕の尊いというのは、その時の君の事を云うんだ。その時に限るのだ」
 兄さんはこう云われても覚束《おぼつか》なく見える私のために、具体的な証拠を示してやるというつもりか、昨夜《ゆうべ》二人が床に入る前の私を取って来てその例に引きました。兄さんはあの折談話の機《はずみ》でつい興奮し過ぎたと自白しました。しかし私の顔を見たときに、その激した心の調子がしだいに収まったと云うのです。私が肯《うけが》おうと肯うまいと、それには頓着《とんじゃく》する必要がない、ただその時の私から好い影響を受けて、一時的にせよ苦しい不安を免《まぬ》かれたのだと、兄さんは断言するのです。
 その時の私は前《ぜん》云った通りです。ただ煙草《たばこ》を吹かして黙っていただけです。私はその時すべての事を忘れました。独《ひと》り兄さんをどうにかしてこの不安の裡《うち》から救って上げたいと念じました。けれども私の心が兄さんに通じようとは思いませんでした。また通じさせようという気は無論ありませんでした。だから何にも云わずに黙って煙草を吹かしていたのです。しかしそこに純粋な誠があったのかも知れません。兄さんはその誠を私の顔に読んだのでしょうか。
 私は兄さんと砂浜の上をのそりのそりと歩きました。歩きながら考えました。兄さんは早晩宗教の門を潜《くぐ》って始めて落ちつける人間ではなかろうか。もっと強い言葉で同じ意味を繰り返すと、兄さんは宗教家になるために、今は苦痛を受けつつあるのではなかろうか。

0 件のコメント: