私は兄さんの説明を聞いて、驚きました。しかしそういう種類の不安を、生れてからまだ一度も経験した事のない私には、理解があっても同情は伴いませんでした。私は頭痛を知らない人が、割れるような痛みを訴えられた時の気分で、兄さんの話に耳を傾けていました。私はしばらく考えました。考えているうちに、人間の運命というものが朧気《おぼろげ》ながら眼の前に浮かんで来ました。私は兄さんのために好い慰藉《いしゃ》を見出したと思いました。
「君のいうような不安は、人間全体の不安で、何も君一人だけが苦しんでいるのじゃないと覚《さと》ればそれまでじゃないか。つまりそう流転《るてん》して行くのが我々の運命なんだから」
私のこの言葉はぼんやりしているばかりでなく、すこぶる不快に生温《なまぬ》るいものでありました。鋭い兄さんの眼から出る軽侮《けいぶ》の一瞥《いちべつ》と共に葬られなければなりませんでした。兄さんはこう云うのです。
「人間の不安は科学の発展から来る。進んで止《とど》まる事を知らない科学は、かつて我々に止まる事を許してくれた事がない。徒歩から俥《くるま》、俥から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから航空船、それから飛行機と、どこまで行っても休ませてくれない。どこまで伴《つ》れて行かれるか分らない。実に恐ろしい」
「そりゃ恐ろしい」と私も云いました。
兄さんは笑いました。
「君の恐ろしいというのは、恐ろしいという言葉を使っても差支《さしつか》えないという意味だろう。実際恐ろしいんじゃないだろう。つまり頭の恐ろしさに過ぎないんだろう。僕のは違う。僕のは心臓の恐ろしさだ。脈を打つ活きた恐ろしさだ」
私は兄さんの言葉に一毫《いちごう》も虚偽の分子の交っていない事を保証します。しかし兄さんの恐ろしさを自分の舌で甞《な》めて見る事はとてもできません。
「すべての人の運命なら、君一人そう恐ろしがる必要がない」と私は云いました。
「必要がなくても事実がある」と兄さんは答えました。その上|下《しも》のような事も云いました。
「人間全体が幾世紀かの後《のち》に到着すべき運命を、僕は僕一人で僕一代のうちに経過しなければならないから恐ろしい。一代のうちならまだしもだが、十年間でも、一年間でも、縮めて云えば一カ月間|乃至《ないし》一週間でも、依然として同じ運命を経過しなければならないから恐ろしい。君は嘘《うそ》かと思うかも知れないが、僕の生活のどこをどんな断片に切って見ても、たといその断片の長さが一時間だろうと三十分だろうと、それがきっと同じ運命を経過しつつあるから恐ろしい。要するに僕は人間全体の不安を、自分一人に集めて、そのまた不安を、一刻一分の短時間に煮つめた恐ろしさを経験している」
「それはいけない。もっと気を楽にしなくっちゃ」
「いけないぐらいは自分にも好く解っている」
私は兄さんの前で黙って煙草《たばこ》を吹かしていました。私は心のうちで、どうかして兄さんをこの苦痛から救い出して上げたいと念じました。私はすべてその他の事を忘れました。今までじっと私の顔を見守っていた兄さんは、その時突然「君の方が僕より偉《えら》い」と云いました。私は思想の上において、兄さんこそ私に優《すぐ》れていると感じている際でしたから、この賛辞に対して嬉《うれ》しいともありがたいとも思う気は起りませんでした。私はやはり黙って煙草を吹かしていました。兄さんはだんだん落ちついて来ました。それから二人とも一つ蚊帳《かや》に這入《はい》って寝ました。
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