「先刻《さっき》君は蟹を所有していたじゃないか」
私が兄さんに突然こう云いかけますと、兄さんは珍らしくあははと声を立てて愉快そうに笑いました。修善寺以後、私が時々所有という言葉を、妙な意味に使って見せるので、単にそれを滑稽《こっけい》と解釈している兄さんにはおかしく響くのでしょう。おかしがられるのは、怒られるよりもよっぽどましですが、事実私の方ではもっと真面目《まじめ》なのでした。
「絶対に所有していたのだろう」と私はすぐ云い直しました。今度は兄さんも笑いませんでした。しかしまだ何とも答えません。口を開くのはやはり私の番でした。
「君は絶対絶対と云って、この間むずかしい議論をしたが、何もそう面倒な無理をして、絶対なんかに這入《はい》る必要はないじゃないか。ああいう風に蟹に見惚《みと》れてさえいれば、少しも苦しくはあるまいがね。まず絶対を意識して、それからその絶対が相対に変る刹那《せつな》を捕《とら》えて、そこに二つの統一を見出すなんて、ずいぶん骨が折れるだろう。第一人間にできる事か何だかそれさえ判然しやしない」
兄さんはまだ私を遮《さえぎ》ろうとはしません。いつもよりはだいぶ落ちついているようでした。私は一歩先へ進みました。
「それより逆《ぎゃく》に行った方が便利じゃないか」
「逆とは」
こう聞き返す兄さんの眼には誠が輝いていました。
「つまり蟹に見惚れて、自分を忘れるのさ。自分と対象とがぴたりと合えば、君の云う通りになるじゃないか」
「そうかな」
兄さんは心元《こころもと》なさそうな返事をしました。
「そうかなって、君は現に実行しているじゃないか」
「なるほど」
兄さんのこの言葉はやはり茫然《ぼうぜん》たるものでした。私はこの時ふと自分が今まで余計な事を云っていたのに気がつきました。実を云うと、私は絶対というものをまるで知らないのです。考えもしなかったのです。想像もした覚《おぼえ》がないのです。ただ教育の御蔭《おかげ》でそう云う言葉を使う事だけを知っていたのです。けれども私は人間として兄さんよりも落ちついていました。落ちついているという事が兄さんより偉いという意味に聞こえては面目ないくらいなものですから、私は兄さんより普通一般に近い心の状態をもっていたと云い直しましょう。朋友《ほうゆう》として私の兄さんに向って働きかける仕事は、だからただ兄さんを私のような人並な立場に引き戻すだけなのです。しかしそれを別な言葉で云って見ると非凡《ひぼん》なものを平凡《へいぼん》にするという馬鹿気た意味にもなって来ます。もし兄さんの方で苦痛の訴えがないならば、私のようなものが、何で兄さんにこんな問答を仕かけましょう。兄さんは正直です。腑《ふ》に落ちなければどこまでも問いつめて来ます。問いつめて来られれば、私には解らなくなります。それだけならまだしもですが、こういう批評的な談話を交換していると、せっかく実行的になりかけた兄さんを、またもとの研究的態度に戻してしまう恐れがあるのです。私は何より先にそれを気遣《きづかい》ました。私は天下にありとあらゆる芸術品、高山大河《こうざんたいが》、もしくは美人、何でも構わないから、兄さんの心を悉皆《しっかい》奪い尽して、少しの研究的態度も萌《きざ》し得ないほどなものを、兄さんに与えたいのです。そうして約一年ばかり、寸時の間断なく、その全勢力の支配を受けさせたいのです。兄さんのいわゆる物を所有するという言葉は、必竟《ひっきょう》物に所有されるという意味ではありませんか。だから絶対に物から所有される事、すなわち絶対に物を所有する事になるのだろうと思います。神を信じない兄さんは、そこに至って始めて世の中に落ちつけるのでしょう。
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